なんかふと思ったこととか

2016年8月 5日 (金)

8月の本音。

いやはや、バタバタJuly、ドタバタの7月が終わって、8月になりました。
アーカイヴしていきます!と、アーカイヴを大きく打ち出しておきながら、
ろくに6月のアーカイヴもできていないまま、8月になってしまっていることをお詫びしますbearing

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〔official instagramことMocastagramより〕

7月で一旦原宿サロンに終止符が打たれ、わたしは7月31日から、執筆のための夏休暇に入りました。デビューしていつだって、働いたり、いろんなことをしながら書いてきたわけで、そういう意味では、デビュー前だって、いろんなことをしながら書いてきたわけですけども、ちょっとひと月、とことん文学と向き合う時間を作りたいと思っています。

デビュー前から「こいつはなんかやる!」と応援してくれてきた人たちが、
2008年にわたしが賞を獲ってデビューしたことで、やっぱり!!おおっ!!!って喜んでくれて、泣きながら電話してきてくれたディスコ時代の後輩なんかもいて。
先日、詩人の文月悠光ちゃんとも食事しながら話していたんだけれども、
なまじ頂いた賞が大きかったので(もちろん中原中也賞のが大きいと思ってますよ)
しばらくその余波で、大きな出版社たちと仕事をさせていただくことができた。

もちろんこの8年わたしも自分なりに一度も作家活動を手抜きなんかしたことなくって、懸命にいただく仕事に邁進してきました。だからこそ電子書籍やライトノベルや、女性向け官能小説なんかもやってきたのだけれども、
今年1月から始まった「あけびちゃん」というWeb連載が、全く理由がはっきりしないまま、2巻で止まっている、という現状に直面した時に、
いろんなことを考えさせられた。

また文月悠光ちゃんとの話になってしまうのだけど、作品の大小とかではなくて、
深度の深い作品ほど、自分の中でも準備や欲が出てしまって、なかなか取り組めず完成せず、後からもらった軽めの仕事(いわゆるニーズが決まっていて、これを書いてくださいという的がはっきりしているもの)を先にあげて、結果一番理解し合えているはずの、というか一番自分の文学を理解してくれているはずの編集者をずっと待たせているよね、でもそれって本末転倒だよね、一体誰が本当に自分を愛してくれていて自分が大切にすべき人たちなんだろうということを一昨日二人で話した。

月モカとかにちょこちょこ本音は書いているので、わたしのことを応援してくださっているみんなにはわたしの心のグラデーションは伝わっていると思っている。

わたしが大切にしたいのは古いともだちと、家族、デビュー時からわたしを見守ってくれている新潮社、幻冬舎、実業之日本社の編集者、そして「中島桃果子」という文学を愛してくれている、おこがましいけれど「ファン」の皆さん。
それには知人友人が重なることもある。

みんな、わたしが出した2冊のラノベも買ってくれて、読んでくれた。
ラノベをやってるわたしを応援してくれたし、週刊ポストで卑猥な発言をしまくっても笑いながら、買ってくれた。でもみんな「次の本はいつ出るの?」と聞く。

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〔近所のBarにて「加水し白濁する」アブサン〕

わたしを応援していてくれる人は、文学を待っている。
わたしはラノベ向きの作家ではなかった。
書いたものは面白いと思っているし、角川のスタッフみなさんプロフェッショナルで、とてもいい仕事ができたから、ラノベを見下しているように取らないでほしい。昨日NHKオンデマンドでプロフェッショナルを見ていて雑誌「VERY」の編集長の回を見た。素晴らしかったし、主婦らしさ、主婦という生き方を肯定して、たくさんの輝く女性を捉えている今の時代の雑誌。

それでもわたしは主婦向きじゃない。
まず特定のパートナーとちゃんと向き合ったり暮らしたことがないんだから、
子供を産んでなどイメージできるはずもない。

そういう感じ。

わたしはラノベ向きじゃない。

わたしはエイミーワインハウス向き。わたしはアデル向き。

自分の私生活や生き様を、恐れることなくさらけ出して、それら失意のすべてを曲にして、どん底から立ち上がる英国の歌姫たち。

わたしはそれら向き。

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〔鈴木麻弓/写真家との撮影前のオフショット、夫人〕

デビュー前、わたしはいろんな意味で虐げられていたし、すべてにおいて評価も低かった。役者にはなれなかったし、どこに行ってもブスとか言われて、スナックでバイトしても上手に接客できないし、たくさんの人にとってアウトオブ眼中の存在だった。

けれどそんなわたしを見つけてくれていた人たちがいて、
何かを起こすのを待ってくれている人たちがいた。
だから思っていた。わたしを見下して馬鹿にしているすべての人たちが息を呑むような大きな花火を、打ち上げてやろうと。

今また、二つ目の花火を打ち上げるべき夏に来ている。
今度は誰かを見返すためではなく、わたしを愛してくれているすべての人のために。デビューして8年、もっと売れてもいいのにイマイチ売れない、もっと知られてもいいのにイマイチ知られない、そういうことで、わたしよりも悶々としてくれていたたくさんの友人たちのために。

そして何よりもわたしのわたしによるわたしの救済のために。

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人が傷つくから私小説は書きたくなかった。
だけど自分に書けるのはそれしかない。
だから書きたい。今書きたい、私小説を。

まあ、そういうことです。笑。

何かを書いていないと、生きていられない。
何かを書いていないと心のバランスがとれなくて病気になる。
だとしたら書いたものでお金を稼がないと、生活のために、書く時間が失われていく。だからステージアップしかない。

まあ、そういうことです。笑。

映画「AMY」の中で、男と別れ、どん底にいるエイミーに、親しい友人は言う。
「エイミー、曲を書け」
これが主婦向きの女の子だったら、友人たちは新しい男を紹介する。
「新しい恋を」と言う。

わたしはエイミー向き。
友人たちは、わたしが病んだり泣いたり、もう嫌とかいってグズついていると、必ずこう言う。「そういうの全部書いたら」と。
「新しい恋をしたらどう?」の代わりに「新しい本を書いたらどう?」と言う。

まあ、そういうことです。
書き出す前の準備体操に、今日からちょこちょこ、ブログは、アーカイヴ含め、更新していきます。どうぞよろしく。

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2016年7月 2日 (土)

少しずつ、少しづつ

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少しづつ、少しづつ。
のりしろを増やすような感じでね。
そんな風に自分に言い聞かせる。

先週の土曜に唐突にダウンしてから、
「もっと頑張らなきゃ、もっと、もっと」
と思う気持ちを捨てて、

Slowに、Slowにと、言い聞かせる。

わたしや親友や、同居人のヨーコや、わたしたちにはのりしろがない。
お金を稼ぐために勤勉に働くこと。
本来それをきちんとやっていれば、後ろめたい気持ちや、
後ろ髪を引かれる事なく、おいしくビールを飲んだり、
仕事じゃない時間にだらだらしたりもできる。

でもわたしたちにはそれら大前提として当たり前で、
ようやくできた空白に自分たちの表現、書いたり、歌ったり、芝居をしたり、
を盛り込んで、さらにその隙間に衣替えだとか夏の大祓いだとか、
洗濯洗剤がないとか、全然本読んでないとかが入り込んできて、
常になんというか、ホームに走って、いまにも発車する電車に滑り込む、その乗り換えを繰り返しているような感じになって、心がホッとする時間がない。
(もちろん自分で選び納得している人生である前提で)

いつも何かに急き立てられ、
いつも何かが今日はできなかったみたいな感じで明日にこぼれて、
いつも頑張りが足りないんじゃないかと思う。

(全国の働くお母さんたちや働くお父さんは、そのような感じですよね、おつかれさまです)

合間に母から「最近は何書いてるん?」と電話がかかってくる。

「連載は何かしらの理由で止まってしまってるし、わたしは今、生活にいっぱいいっぱいなん」

思わずそう言うと母は、
「でも、あきちゃんの小説早く新しいの読みたいんよ。ママ、昭子の書く小説好きやから」と、遠慮がちに、言った。

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少しづつ、少しづつ、その準備をしている。
牛歩の歩みに見えるかもしれないが、
5月から、少しづつ。

まだ皆のお手元には届いてないが、今年の1月までは怒涛の勢いで「あけびちゃん」を書いていたので、脱稿してから2月、3月、少し休んだ。

そして妹のための映画を作った。

世間的には2012年から単行本を刊行してないわたしだけど、
わたしは日々、何かを書いている。
毎週月曜エッセイを書いているし、毎週15分ほどの芝居の戯曲を書いているし、
妹のための映画の脚本も書いた。

わたしは非常にいつも、何かしらを書いている。
それら表に出ず、何も進んでいないように見えてしまうアンダーグラウンドな創作活動をしながら、けれどもその要素はわたしには重要な、
いわゆるタコと手元の糸だから、

同時進行で、少しづつ少しづつ準備をしてきた。

まるで無関係に思える様々なこと。

とりあえず水を積極的に飲み、停滞している体から毒を出す。
循環するからだをつくらなくてはならない。
一気にやったらパンクするから。
5月はまず水と映画。
6月からとりあえず週2〜3回プールに行くことを死守。
わたしの頭は水中でまとまり、水中にいるときにわたしのラジオは何か、放たれるべきものを受信する。
6月からヨーコが来て新しい風が入り、わたしのからだもわたしの部屋も、
どんどん循環し始めた。
自炊を開始する時がきた。
半ばヨーコに背中を押されるような形でだけど、
6月下旬からは、だいたい何かしらが入っている豊潤な冷蔵庫を保ち続けている。

あと断捨離。
あとブログに少し長めの記事を書くこと。

そんなこんなで、サロンがなく割とスローだった6月の日々の中で少しづつ調子を整えてきた。
人生における重要な作品はオリンピックと同じ。
頭で考えて指先をタップすれば良いように見えるけどそうじゃない。
「そこ」に照準を合わせて準備していくということが、
わたしには大切。

蝶番の時は2週間六本木のスナックを休んだ。
結局書き始めたのは休みあけからで、幾つかのバイトを合わせて休みなんかまるでない怒涛の日々の中、残りの2週間であれは一気に書いたのだけど、
重要だったのは、書く前の2週間だったと今でも思っている。

体重も1.5キロ減って、わたしの目指す、循環する物書きのからだまで、
あと少し。女としてはあと5キロ痩せたいけど、
作家のからだ優先で、とりあえずあと1キロから2キロでいい。

いろんなことが出来上がってきて、
体が熱くなってきたり、ちょっとテンションが変になったりして、
そう思ったら、糸が、切れてしまった。


おお。そうか。

降ってきた土曜の休日に元からあった日曜のオフ、何かをするはずだったけどすべてを放棄した月曜日、その3日、ひたすらダラダラ過ごして、
また一つ学んだ。


自己救済の大切さ。

そしてわたしにとってもともと書くことは自己救済であったこと。

みんなが「え?だいじょうぶ!?」と心配してくれるような文章とかは、
昔なら手帳やノートに書きつけられて人目にさらされることはなかった。
けれど今は執筆メモ(心のメモ)も、兼ねて、
こうしてブログに綴られたり、する。

けれど何かを書くと、わたしはとても救われる。
心がすっと、軽くなるような、
問題や痛みを消化できるような。

あ、原点に帰ろう。

わたしによってわたしを救う、そんな文学に。

不思議なことに、
内にどんどん入っていった方が、最終的には、たくさんの人に届く作品になる。
プロだからと読みやすさや展開や、何かしら第三者の目を意識していくと、
結果何も書けない。

何を書くべきなんだろう、わたし。
そんなことは、考えなくても良かったのだ。

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バイトの帰り道、いつも通り過ぎる新潮社の、ロゴのところに手を重ねた。
わたしは脇を歩いているだけでも、この会社を親のように感じる。
儀式をしよう、わたしとこの建物の間だけの秘密の儀式。

それを密やかに行い、近所のBarに行ったら、隣に男の人が座っていた。その人はわたしが物書きだと知って、こう尋ねた。
「あなたが今いちばん、書きたいものは何ですか?」

その言葉は、びっくりするくらいすっと胸の中に入ってきた。
まるでこの席に座ったらこう聞かれますよと段取られていた、
予知夢のように。

あなたが、今、いちばん書きたいものは、なんですかー。

わたしは即答した。

「私小説です。私小説。他にも色々書きましたけど、わたしには私小説しかない、というか私小説しか書けないっていうことが、よくよくわかったんです」

デビューがね、すぐそこの新潮社でね、私小説書いてデビューしたんですよ。

男の人は言った。
「やっぱり作家は、処女作に帰るんですねぇ」

そしてわたしは隣に座っていた人が、新潮社の人間であることを知った。
そのBarにはそれはそれは足繁く通っているけど、新潮社の人と会うのは初めてだった。しかも話すなど。

わたし、担当がノーリーなんですよ。と伝えると、その人は明日も会うといったので、わたしは伝言を伝えてもらうことにした。

「そろそろ、書きます」

わたしは知っている。たった2週間で書いた小説が、人生を変えることがあること。半年もあれば、全然違う日々を始めることができること。

この状況を打破し、腰を据えて船パリや、あと命のことや、今書きたいと思っている幾つかのものを滞りなく形にできる日々を手に入れるために、

突破口になるものをまず書く。

自己救済でいい。わたしがわたしを救うのだ。

でも。

少しづつ、少しづつ。
だいじなところで、
糸が切れて、しまわないように。

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2016年6月25日 (土)

執筆メモ「目」

このまま家に帰って号泣したら、一緒に住んでいるヨーコがあたふたして困ると思った。だから歩くことにした四谷三丁目から牛込までは、実際のところ、
心の澱を洗い流すように泣くにはとても短くて、
わたしは寺尾紗穂の「楕円の夢」のアルバムを聴きながら、
馬鹿みたいに行き場のない道を蛇行し続ける。

四谷から牛込の、直線に丘を駆け上がればいい道のりを、
馬鹿みたいに蛇行しながら、馬鹿みたいにずっと泣く。

あのね、彼女の目を見て欲しいの。
きっとこの状況を脱したいと思っていることに気づくから。

あのね、わたしの目を見て欲しいの。
きっとあなたを今、
心底必要としているのは彼女じゃなくてわたしだってわかるから。

蛇行してわざと遠回りしてみたけど、
扉は閉ざされていて、
もしも明かりが灯っていたとしても、今日からは寄らない扉であるのだけど、
やはりとても傷ついて、

磨りガラスに額をくっつけて泣いた。

もしも磨りガラスの向こうで寝ていたら、
その振動に気づいて、扉を開けて欲しいと思った。

けれどもちろん磨りガラスの向こうに誰もいないし、
もしいたら、額をくっつけている自分は、すべての状況をただ、悪化させていくだけ。それもわかっていて。
だからこれは、叶って欲しくない、妄想。

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ねえどうして。

気づいてほしいな。

わたしはあなたを、とても必要としている。

あなたが目を合わせない

ようにしているあの娘より、ずっと。

お願いがあるの。

彼女の目を見てあげて。

もう終わりにしたがっていることがわかるから。

お願いがあるの。

わたしの目を見て。

あなたを必要としていることがわかるから。

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もしあなたが、彼女の目を見ずに、
わたしの目を見つめながら、

これを続けてゆくことができたならば、

あなたは、わたしより、彼女を愛しているってことよ。

彼女を失いたくないってことよ。

失いたくないのなら、彼女と目を合わせて。

そして失う覚悟をしているのなら、

わたしの目を、ちゃんと見て。

わたし、あなたを、必要としている。

そしてわたし、あなたが思っているほど、強くない。


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2016年6月24日 (金)

蛹(さなぎ)/執筆メモ

【蛹(さなぎ)】

執筆メモのような何か。

側近フォトグラファーMによるインスタ、モカコスモ”Mocastagram"を発動してからずっと、

実はこれを実行する予定でした。
ヘアメイクさんを入れての作家モカコ撮。
いつもは自分ブランディングをすべて自分でやっているので、可能性を広げるべく、プロデュースを全面的に”M”の視点に委ねての、ナチュラルで自然で、悲しげではなく温かい、”M”の見つめる、友人であり職業を作家としているわたしの撮影。
コンセプトを井川遙に定めて(すべてのファンの皆さん先に謝りますごめんなさい)、トリッキーでアーティなモカコではなく、オーガニックでニュートラルなところを目指した。

                             
「わたしはあなたを、普通に美しく撮りたいの」
「すぐモカコさん、陰(いん)に入るから悲しそうな顔やめて」

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撮影の中で太陽をとり戻す。

自分の中にも闇や病みはある。けれど生い立ちや、わたしの持つ本来の雰囲気が全く「かわいそうな感じ」がしないため、
こいつは大丈夫だろうと思われる。そしてわたしが必要とした人は、見た目極端にかわいそうな感じの子にいつも流れた。

                             
「おまえはたくさんの人が周りにいるけど、あいつには俺しかいないんだ」

                              
10年以上も前のことなのにそう言われた時の景色を今でも覚えている。当時わたしは27になったばっかりで、正直なところひどく病んでいたし、本当はわたしだって、いや、わたしこそ、
あなたしかいなかった。

                              
男の人はいつも肝心なところを間違えていて、
そういう女の子こそ「俺しかない」と相手に思わせるポテンシャルを生まれつき持っているから、まわりには他にたくさん可能性があるわけだし、拾ってくれる男の人が欲しかったわけだから、
タイミングが違えば、あなたじゃなくても良かったタイプだと思うし、実際のところ、代わりを見つけたらあなたの前から去っていった。

そしてあなたが「俺じゃなくてもいい」と思っているわたしだけがあなたしかいなくて、あなたしかいないけど、あなたしかいない風には見えなくて、その後も何年も、
結局あなたしかいなかった。

                              
そういう恋愛をくりかえして、
わたしは自分自身こそが「俺しかいないあいつ」だということをどう表現できるのか、どうしたらわかってもらえるのかを、
きっと考えていたのだと思う。
それで知らないうちに、「悲しそうな表情」「悲しそうな気配」をなんとか纏おうとして、それが癖になっていたことにきのう、気づいた。

                              
滑稽な話だと思った。(自虐的な意味じゃなくて)

 

だって表面的な闇なんて意味がない。
相手はその奥にある圧倒的なわたしの光を見ていて、
その裏側にある、ほんとうの闇とか寂寞とかは見えないのだから。

複雑な家族構成の人間の中にも光はあるし、
つまり裏を返せば、恵まれた生い立ちの人間の中にも闇はある。

                              
だから、わたしの中にも闇はある。寂寞もある。
同時に圧倒的な光と太陽もある。でもそれは、わたし以外のひとも皆すべて同じで、それらすべて同じ分量ずつ持っているもの。
それが相手の目に映るか映らないかは、相手の持っている魂の目が「相手の何を見ているか」でしかなくて、
「わたし」が、それをなんとかすることはできない。

                              
そのひとにとって、わたし、が
「気にかけなくてもいいくらい大丈夫」で、
そっち、が「気にかけてあげていなくては死んでしまう」というのは、もはやわたしの領域を超えていることなのだ。

                              
はた、とそれに気付き、癖になっている悲しそうな顔をやめたい、と思った。馬鹿げているから。
でも時間をかけて作ってきたその「見せかけ陰(いん)」のわたしは、気がつくとそういう顔つきをしていて、
何度も”M”に「悲しがらない!笑」とダメだしをされる。

こんなに楽しいときに悲しがった顔をして、
すごく参っているときに、光に見えているなんて、わたしは滑稽だ。面白いという意味での滑稽さがある。

この矛盾をどう消化していくよ? わたし。
なんかその滑稽にどつかれるような形で、きのうわたしは、完全に目覚めた。Wake Up、した。ケイティペリー的に言うと、Wide awake、した。

まじ無意味、まじ無意味な出来事の数々。
ふざけたおせ。
つか、ふざけたおしてる。

自分が謎すぎて、謎。

まあそういう感じに陥った。
陥ったというか、おち上がった。

で、OK〜。って感じになった。

                              
撮影では、”遥”(ファンの方本当にすみません)な写真がたくさん撮れた。(素晴らしいヘアメイクと素晴らしいカメラマンのおかげです)

それらはおいおい太陽モカコな感じでいろんなところにアップしていく。それを見たらわたしがHappyに見えて、あの人がまた「モカちゃんは大丈夫」と思ってわたしのことを忘れてしまうかな、
とかはもう思わない。

                              
しょーーーーもない、から。笑。
それらすべて、逆向に作用しているこの滑稽な「なう」の中で。

人生の課題はいつも相手の中でなく、自分の中にある。そのねじれは、10年かけて悲しそうな顔を作ってくるような恋愛をしてきたわたしの過去の中で形成されている。

トリッキーでなくアーティでない写真がたくさん撮れたのに、
わたしがいちばん気に入ったのは、さっきカバーにしたこの写真だった。(結局ひどく傍目にはトリッキー感があるのだが)

                             
「なんか悩んで!うまく書けない時どんな感じになる?」

そのカットをいっぱい撮っている時に、
なんていうか芝居で即興をやっていて一瞬だけど感情がうわあああって憑依する時の感じがやってきて、元芝居仲間の”M”は一寸のブレもなくその瞬間を捉えた。
それがこのカバー写真である。「蛹(さなぎ)」と名付けた。

                              
わたしは小説を書きたい。文学を書きたい。文学を書きたい。わたしの中から生まれる、私だけの文学を、一心不乱に書きたい。
書きたい気持ちが泣きたいくらいに溢れて、喉元まで溜まっているのに、わたしはひさかたぶりに人を愛してしまって、
それはもうとても愛してしまっているので、それに紐づく諸々のこと、諸々の、もろもろもろろなそのことが、
わたしの後ろ髪を、引くなんて生やさしいものではなく、それは柔道の、返し技のように、わたしをねじ伏せ、わたしはこの3か月ほど毎日一本負けをしてきた。
そしてそのたびに「あー、死なない」と思ってきた。
大事な人たくさん亡くしたから、
死にたいなんて軽く言うのは嫌いだから。
でもさ、あー。やっぱり、あー、死なない。
死なないは死ねないではなく、死にたくない、でもなく、
死なない、という強い意思を表す。

                              
あー。あああああああ”〜〜〜〜。死なないぃぃい。
そういうこと。

                              
あの子は大丈夫と思われるときっと相手の心が離れていく。

                              
でも本当は知っている。そう思ってわたしが不安定になって小説を書けなくなっていくことがいちばん、相手を疲弊させているということ。太陽だと思われているわたしが曇っていくことがいちばん、相手を追い詰め、わたしといることを苦しいと感じさせるのだということ。

                              
小説家という職業をたまに恨めしく思うのは、自分に起きている出来事すら、小説家という視点で眺めた時に、相手の思っていることや感じていることが手に取るようにわかってしまうこと。

皆わたしが男心をわからないから「あちゃー」ということするよね。と思ってる。実は違う。逆。

                              
手にとるようにわかりすぎて、見えすぎて、うおおおおおおとなって、そうなる。手にとるようにわかったらそうしない?
そんなことない。手にとるように見えてしまうということは、おそろしいことでもあるのだ。好きな人の24時間が、スケルトンで視えたら、多くの人がたぶん狂う。

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わたしに惹かれる人はわたしに太陽を感じて惹かれている。
だからその太陽が、自分のせいで曇っていくのはこわい。
重たいという意味のこわい。
太陽を感じてわたし惹かれる時点で、何かしらの錘(おもり)を抱えて生きててそれに疲れていたはずだから。
その癒しであったはずの太陽が曇って、
自分の抱えている錘(おもり)と似た気配になっていくことは、相手にとってそこいらのホラー映画よりも恐ろしい。

                              
つまりわたしは病んでも陰っても、すべて病み損なのだ。
そうしたらかまってもらえるはずの理想形に近づいていくほど、
実は理想からは遠ざかっている。
だから意味がないのだ、わたしが悲しくなったり不安定になったりすることに意味など。

すべてのものがシンメトリーであって反転している。

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だってこの蛹の写真は、わたしの中では最高にポジティヴで美しい写真であるにもかかわらず、

一般的に見たら、悩んでいて、苦しんでいるように見える、つまり「蛹の時期」に見える。

けれどもこの写真は、ほんとうはわたしの、もっっとも明るく、強い光の部分を表していて、命あるいは魂に近いものであり、
この写真が、わたしの中にある本当の闇とか病みの、ま対極にある。それが完全に、どう見ても「わかりづらい」という部分、笑、そこが、わたしという人間の、周りからの見えにくさ、なのだ。

その見えにくさ、に伴う誤解や行き違いがわたしの寂寞や闇につながって、だからわたしはヘドウィグに夢中になって、わたしの片割れを探していた。

                              
蛹のカバー写真と、コーヒーを飲んでいる遥的なアイコンとは、
コントラスト、に見えると思うけど、
そうではなくて同じ、わたしの中のいちばん尊い光の部分。

わたしは今日、強い強い光の部分だけを、2枚、選んだ。

そういうことなんだわ。

 

とにかくわたしは、わたしの後ろ髪を引っ張るエセ闇を、昨夜、光で瞬溶し、早ければ今夜から、小説にとりかかる。
純文学、を書くと思う。

そろそろ新潮社を、帰宅時にただ通り過ぎる建物、としていてはいけないと思うし、

タイトルは今の所「ある私小説作家による極めて独断的な私小説」と考えている。

つまりこれは執筆メモであって、半分物語である。

物語を書いた時点でわたしはその問題を、消化している。

 

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2016年6月18日 (土)

イヤシノウタ

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久しぶりにまったりと、人生のことを考える土曜の午後。
4月に買って、買ったその日に8割がた読んでいたこの本を、なぜか2割残しているというわたしには非常に珍しい状態であったのだが、本日読了。

人生に行き詰まったり、何か無性にかなしくなったりして、
それでいてその問題に「こつこつと日々をクリアしてゆく」ことしか解決策が用意されていない時、わたしはいつも吉本ばななと江國香織に帰る。
帰る場所であるからジャッジはない。
なので今回も、里帰りしたような感触以上の感想はない。

土曜の昼間は大抵ひどい二日酔いで、夕方から始まるワインバーの出勤時間まで、
死にそうなうなぎのようにベッドに横たわって過ごしていることに心底嫌気がさして、金曜の夜は深酒をしないことを決めた。決めた、と言っても金曜も仕事で飲んでいるので、状況によるのだけど、水を多く飲む、とか、盗んでじぶんのことをいたわることはできる。

そんなわけで久しぶりにシャキッと目覚めた土曜の午後は、
お日柄もよく、風は部屋をやわらかく通り抜けてゆく。

そうだ、こういう午後を持つべきなのだった。

恵比寿橋から芝公園のプールまでをコトコト揺られるバスの中とか、
何となく好きなカフェに行くだけに外出する麻布十番の午後、とか。

吉本ばなな、と、よしもとばなな、は、似ているけれど、そしてもちろん同じお方なのですが、わたしの中ではまるで違う。

吉本ばななが帰ってきたことは、わたしの中では大きな吉報であった。

吉本ばななの新しい小説をたくさん読みたい。

わたしはいつも恋に夢中になって、
恋に夢中になることで、相手の目の中で、色あせてゆく。

膨らんでいたはずのわたしの魅力は痩せ細っていく。
そして一度死ぬのだ。その瞳の中で、わたしはいつも、一度死ぬ。

恋とか愛というのは、世界で、いやおそらく宇宙で一番美しく、
すばらしいものなのに、

それに夢中になることで、どうしてわたしは相手の腕の中の輝きを失わなくてはいけないのだろう。

わたしのからだの成分は一体何でできているのだろう。

もしも、もしもよ?
愛とか恋によって、蝕まれなければ、ならないとしたら。
どうしてそんな、間違った細胞の働きを、
わたしのからだはするのだろう。

わたしはいつもこの矛盾と戦っている。

敗北が多いけれど、向き合うのをやめるつもりはない。

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2016年6月17日 (金)

エゴイズムモカコ

エゴイズムというのは、あなたが、他の人に対して、その人自身のニーズよりも自分のニーズを先に満たしてほしいと願うことである、ということです。つまり、エゴイズムとは、相手を犠牲にして自分を幸せにすることなのです。あるいは、相手が自分を幸福にすべきであると考えることなのです。

これは、わたしがtwitterでフォローしている、リズ・ブルボーのtwitterの言葉なのですが、引用しようと思ってコピペしたら、なぜか絶対的にこのでかいサイズになってしまいました(笑 声を大にして心に刻めということだろうか。

先日、日芸チーム兼サロンメンバーのちほと近郷みほと、久しぶりに3人でご飯を食べて、近郷みほが、結婚から数年経っても、旦那さまに心地よくいてもらうため、かわいい女性と思ってもらえるためにずっと努力していたという話から、

「どうしてムーミンさんは、好きなひと、、、え? 好きなひとなんでしょ?
そのひとが心地よく居られると思う空間をつくる努力をしないの?」

と聞かれて「これまでずっと、それができてたら今こうなってねえよ!」
そして同時に「この人それが好きな人にだけできないのよ」と熊田からの注釈入りつつ、じゃあどうしたらいいんだみたいな話をしていたのだが、
親友のちほが

「不思議だよね、恋愛限定でそうなるってさ、普通みんな逆なのに。あなたはいつだって、恋愛以外のすべての人間関係で、無償でそれをしているのにね」

と言い、わたしも、そうなんだよな・・・反動ってやつなんだろうか、とか思いつつ、だからこそ「好きなひとにだけはわかってもらいたい!理解してもらいたい!気持ちが強くなっちゃうんだよね・・・」

で、それで相手の心地よさゼロなんだよね・・・とかそういう話をして、
過去に関わってくれたすべての男の子たちに感謝していた。

どうして日常生活や日々の人間関係で、自然にできていることが、
そこ限定でできなくなっちゃうのだろう。
普通の人間関係で「じぶんの丸ごと」なんて投げたら、相手苦しいよ、
って、思うし、しないのに、なぜそれを、そこ限定で、
これでもかとするのか。

しかしその近郷みほが言った、
「相手に心地よくいてもらいたい」って思う気持ちを全うするっていうことが、
なんかとても素敵、同じことなんだけど「相手をゲットするために」方法論として言われると「そういうの好きじゃない」♪ありの〜ままの〜みたいな頑なさ発揮するわたしも、みほのその感じ、旦那さんへの接しかたがとっても可愛くって素敵だなって思って、これからはわたしもそういう女性になろう!って思って(きっと全然すぐになれないんだろうけど)、

帰り道でTwitter開いてたらこの投稿が出てきて
「まさに!!coldsweats02」「まさにあたしこれやん!!!bearing
と、大きな衝撃を受けたので、プリントして部屋に貼るか、
忘れないようにブログに書いとこって思ってコピペしたら、

HTMLがわたしの気持ちを汲んでくれたのか知らんけど、
とっても大きな、コピペになりました。

って話。とりあえずわたしはエゴイズムにまみれているのだ。
これからそれを、少しづつ払拭してゆ、く?

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花職人でもある近郷みほは、エクセルシオールカフェの紙ナプキンで、
あっという間に美しい花を作ってしまいましたconfident

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2016年6月14日 (火)

わたしの近況(東京OASIS)

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5月を振り返る。なんて言いつつ、今はもう6月も半ばであるのであった。
5月は、サプライズが全部終わった今だから言えるけど、
神楽坂ボスと、我が妹ayameっくすの結婚式が連続してあって、
(まったく、重要なこととはどうしてこう突然重なってやってくるのだろう)

ほとんどがそれらに費やされたと言っていい。
特に、妹の結婚式では、ほとんど「映画」と呼べる映像作品を作っていたので、4月末から5月21日までは、ほぼその作業に追われた。
その間にthe yellow monkyのライヴに行ったり、東踊りに行ったり、
そしてサロンは「月刊 杉浦秀明」なんかをやったりなんかして、

もう、どうしようもない忙しさだったのである。

5月30日にそれらがようやく終わって、
入れ替わりに我が家に新しい同居人がやって来た。
高校の時の同級生、NYに10年住んでいたヨーコ。

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怒涛の5月と入れ替わりにやって来たヨーコさんは大変手のかからないひとで、笑、
わたしたちはラフな感じに暮らしています。
6月はサロンをお休みするということがあるので、
月曜にサロンがないのは寂しいけれども、
そのおかげで溜まっていたことがいろいろ一気にできる6月。

というわけでわたしは7月以降の2016年に備えて、いろんなメンテナンス期間。

まずプールに入会して、時間が空いたら、何が何でもプールへ行くことにした。
泳ぐというか、水の下の世界に繋がると、
忘れていたことや大切なことがたくさん、宙から降ってくる気がする。

「モカコさん、あなたはこの場所で通信するんだから、ここに来ないと」

何かに言われてるような感じで、ひたすらプールの底ギリギリまで潜って行く。
そこでもう何ヶ月もアップデートできていないOSのようなわたしは、
自分を少しづつアップデートしていく。文学を書きたい。

強く、圧倒的で、わたしが書くゆえの完全なるわたし、みたいな、
ふてぶてしい物語。

深く潜った場所から水面を見上げると、そこはぬらぬら、きらきらと、
幼い頃に脇に挿して熱を測った、体温計の中の水銀のように、
光を吸い跳ね返しながら蠢いている。

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「水が足りてないよ、水を飲みなさい」

5月2日にそう言われてから水を飲み続けてひと月半、随分と体が楽になった。
水はけの悪い体であるから水を飲まなくていいというのは違うのだった。
その理屈を理解した今、毎日シンクの中の銀色の洗面器を眺める。
ゆすぐだけゆすいで洗わずにつけておくコーヒーカップの内側から溶け出した薄い茶色が洗面器を白濁させている。こういうことなんだろう。濁っているんだろうな、私の体の中は今。澄みわたっていなんだよ。
そういうことで、とりあえず水を飲む。

水を飲みながら洗面器の中にも勢いよく水を注ぐ。濁った水が完全に排出され、冷たく、すきっとした透明がそこに満ちるまで栓を止めない。
こういうことだよ、これをやるために水を飲まなきゃ。

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23歳のときに、突然ナオミがやって来たときと似ている。
ヨーコが住み始めてすぐにそう思った。だとしたら何かが始まるのだ。
あのときナオミは詰まった排水管を掃除するように、
わたしの滞った人生に水を注いでくれた。

突然やってくる同居人の女の子は皆ーと言ってもこれで二人目だけどー身体がとても美しい綺麗な人で、だいたいそういう女の子の日々はシャキシャキ、テキパキとしている。ちゃんとした食事をとり、いろんなことが、悩みながらもはっきりしている。

わたしはテキパキ、シャキシャキ、しているように見えて、基本的にはぐうたらしている。そしてじっと、ひとところに止まって何時間でもモノを考えている。
それらは結局、わたしのしていることに見合っているのだけれど、
時にそれが逆に働くことがあるのだ。

何も考えずプールに行った方がいい時期がある。
いま、わたしはたぶん、すこしづつ舵を変えている。

プールに通い始め、溜まったモノをすべて片付け(書類とか洋服とか、春のなごりや、後回しにしていたことやらすべて)、ようやくこのブログに手をつけた。

たぶんまた自炊を始めると思う。でも今日とか明日はしない。

インスタを始めたしtwitterも昔からやっててFBでエッセイも書いているので、
このブログをいったいどういう扱いにすれば良いか考えあぐねていた。

基本的に答えは「出す」ものではなく「出る」ものだと思っているので、
放置していた。そしたらやっぱり、答えは出た。

このブログは全体のアーカイヴのような感じにしようと思う。
つまりカテゴリもインスタ、とか、twitter、とか、オフィシャルFBとかに分けて、
なんとなーく、ひと月分を月末までに上手にまとめるような感じにしようと思っている。毎日随時ナカジマモカコを追うほどじゃねえな・・・・っていうひとも、
ここに来ればなんとなーくひと月のダイジェストがわかるような感じ。
それは自分にとっても人生のメモのような感じでいい。

うん。それはいいね。

実際のところ、もう、このブログは「中島桃果子」ではほぼ検索されていない。
10年ほど前に始めた時と同じくらいの密やかさに、戻ってはいるのだけど。

でもそんな感じにアーカイヴしながら、
時にこういった風に、どこにも載せていない言葉を、こうして書き綴ってみたりしよう。エッセイを書く!と気合を入れない方がするすると言葉が出てくることがあって、実際のところ、今日書いたこの日記が、わたしは好きだ。から。

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(わたしの大好きなmarta beckettーマルタ・ベケットさん)


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2016年6月 1日 (水)

あの日

∞Mocastagram∞
あの3.11の次の日の自宅の風景。
原発のニュースに吸い込まれながら、次の瞬間には互いの笑顔があり、それを写しているわたしの目もはふすまの手前に。前日妹は新宿の街で発作を起こして倒れ、たまたま一度だけ繋がった電話でモアイ像の前で原始的な待ち合わせ、一緒に2時間歩いて帰宅した。それぞれの家族にそれぞれの記憶があるあの日。これはわたしにとっては一つの報道写真といえる。
わたしは携帯にずっとこれを保存している。
this is family portrait taken by me the day after 3.11.2011.
the day before that day big earthquake had come japan.

#家族 #ポートレイト
#あの日 #中島桃果子

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2016年4月25日 (月)

かつて

久しぶりに誰もいない店にひとり残って、安藤裕子を聴きながらいろんなことを考えてる。

いくつもの店で働いてきたけど、こういう時間が実は好き


ここで働きだしてまだ恵比寿に住んでいた頃、わたしがか

つて好きだった人はわたしの前でいつも嘘をついていた。

彼は嘘をつくのがすごく上手だった。わたしは彼のことを

気がおかしくなるくらい好きで、彼はいつも彼女のことを

罵っていた。わたしはそれを馬鹿みたいに信じていた。
だから自分が唯一の彼の味方の気持ちでいた、 だから知らなかった、わたしがいない日にこの店でプロポ

ーズしたこと。わたしが拭いたグラスで盃をかわしていた

こと。
だからわたしはほんとはいつも自信がない。
だから親しい男友達が「マジあいつにイカレテたよね、おまえらしくもなく丸め込まれて」みたいに言うと、ついそんな気がしてくる、そうじゃない時期も、きっと僅かながらにあったはずなのに。
かつてすごく美人の同居人がわたしにはいて、男の子はみんなその子と繋がりたくてわたしと仲良くなろうとしたから、わたしは美人の同居人を好きな男の子がみんな嫌いだった。
そして美人の同居人のそばにわたしがいることを見てくれる男の子にひどく依存していた。
自分に自信がないから、(逆を返せばひどく自己愛が強いから)
わたしに好意を持ってくれる男の子と26歳の誕生日以降はすぐに寝た。誰かがわたしと寝てくれるとすこし気が落ち着いた。でもその子たちもいちばんだいじなのはわたしじゃないから、オフラインでは結合しててもオンラインではいつもさっと手を離した、それでいいと思っていた、無責任に寝るとはそういうことだから。
そういうことを繰り返して、わたしはとても冷静な大人の女になってしまった、
ほんとは好きな男からちょっと返信がないくらいで死にたくなるくらいになるくらい弱いのに、そうじゃないふりをして生きている。
それがわたし。
簡単に抱こうとされると嫌なのに抱こうとしてくれないと底なし沼に飲み込まれそうになる。
だからわたし、ちょっとやっぱり少しイカレている。

わたしは今何かを書きたかった。
たぶんそうなんだと思う。

空気とか、そういうのんじゃなくて。

私小説しか書けない女が、書かれたら困る人のことを考えて何も書けない、
いい年してエモいこと書いてもみんな引くからなにも書けない、だからもう4年も、出版社を待たせたまま、ラノベばかり書いている。
女は感情的な生き物で、男はみんなそれが嫌い、なのに男はどうして女を愛するの。
わたしだって人目をはばからずたくさん泣きたい、それを見ても呆れたり萎えたりしないでそばにいてほしいの。
はばからずに会いにきたりしてほしい、
みたいなことを書きたいの。

わたしは今日なにかを書きたかった。
ただなにかを書きたかった。
だってわたしは物書きだから。

誰もこないこの店で、誰も待っていないような感じで誰かを待っている。

誰でもない誰かを。

それは、ただわたしが、いま、ひとりでいたい、という言葉の代わりなのかもしれないけれど。


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2016年4月13日 (水)

桃果子的宇宙について

怒涛の4月頭が終わって、ようやくPCに向かってブログを書いたり出来ている。
※なんかココログの仕様が変わったみたいで、macからだとsafariでもCromeでもfirefoxでも、いわゆる1行あけができなくて、文字がみっちり詰まってしまいます。どうしても直せないので今日はこれでbearing携帯からいじるとこれ今度すげー空白空いちゃうんですよ(涙

今年の自分は、人間生活の充実、というものを大切に、
人らしい食事とか、人らしい運動とか(笑、
何か目標地点に向かうための通過点としての日々ではなくて、
日々そのものを堪能し、輝いて過ごしていく、それの積み重ねができていけばいいと思っている。
そういう角度から見ると、ちょっとしたスケジュールのスリム化をしなくちゃなあと思いながら、予定を追うように走り抜けたこの10日ほどであって、
(それはまあ、いろんな人がお祝いしてくれた嬉しい慌ただしさであるからオK)
ということで、ようやく予定に自分が追いついて、
よしブログを書くぞ、という感じで、自分が予定を生み出せている状況となったわけ。
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さて。昨日我が旧友、近郷画伯(うたタネではそう呼ばれている)と、
銀座、星乃珈琲にてInstagram会議をした。
どうも粗雑になっていてまとまりのない我がInstagramを目で見て楽しいタイムラインにしてゆくための会議である。
なぜ彼女を呼び出しているかというと、
今後、中島桃果子のインスタは、謎の側近フォトグラファー”M”という人間によって、日々投稿されてゆくゆえ。
その中でタイトルをどうしようかなどと考え、
「中島桃果子official instagram?」「いや固いな」
「中島桃果子ワールド」「んー・・・」
「中島桃果子Land」「 んー・・・・」
などとしていくうちに、
「なんかさ、、、ピラミッド型のものの、下から上に上がっていくためのツールとしてインスタを再起動するわけじゃないんだよ」
という、自分の奥底の思いにたどり着いた。
「インスタってお洒落じゃないと億劫な雰囲気とか、こうすれば人気が出ます、とか、たくさんフォロワーがいて・・・の、インスタ発、みたいな、なにかトレンドの高みを目指していくような感じがあるじゃん? (プライベートじゃない場合特に・・・)ああいう、こう、ヒエラルキーの下から頂点目指すぞ! みたいなことじゃなくてさ、大きな池があって、もうその中に完全な○(まる)として、その存在はあるわけ。
それは、たった一人にしか知られてなくても、もう完全な○(まる)なの。そういう、”唯一無二の同時多発的存在世界”に向けての発信がしたいの」
熱く語ると”M”はこうたずねた。
「ジャガーさん、みたいなこと!?」
「まさにそう!!!!!笑」
Cdahupuyaaxskc
(ジャガーさん☆)

そういう話から、丸いもの、球体のもの、個にして、すでに完全なもの、
そして小説や脚本や芝居や生きざまや、そういう全てを含むことができるものってなんだろうと考えていたら、コスモ(小宇宙)という言葉にたどり着いた。
小宇宙とはWikipediaによると、
「宇宙全体の一部でありながら全体と類似したもの」
人間、芸術作品などをそう捉えるときがある。哲学用語。これに対して宇宙全体のことを大宇宙という。のだそうだ。
うん、まさにこれですな。
ということで「モカコスモ💫桃果子的宇宙」始動です☆
何かが手に入っていなくても、
なにかが高みに近づいていなくても、
日々を輝かしく生きていたら、いのちの”現在地”はキラキラしている。
わたしなんかほんとに全然売れてないから、ブログなんて毎回検索ワードの1位は、
「むやみやたらに家電が壊れる」ですが、
(2011年に恵比寿に引っ越した時に起きた奇怪な出来事についてのブログが多分一番読まれている。意外と家電はあちこちで一気に壊れて、皆がその不思議さゆえにそのワードで検索をして、わたしのブログにたどり着いているらしい)
「だから、なに?」
的なあれで。
「この人なにしてるかよく分からない人やけど、なんか楽しそうに生きてはるやん」
みたいなことから、皆が楽しく生きてくれたらそれでいいなあって思います。
テレビはいつも頂点しか取り上げることができないから。
(テレビとはそういう役割のメディアで、批判するつもりは全くない)
でも本当はその頂点の点以外のところに人のLIFEは広がっていて、
たくさんのコスモ(小宇宙)がそこでいのちを萌やしているのだ。
わたしは小説家を目指してずっと頑張ってきたタイプじゃないから、
でも役者になれなかったという経験もあって、夢を追いかけている人の気持ちが痛いほどわかるので、ひょんなことから作家になってしまった(なることができてしまった)ときに、これは使命なのだと、もしかわたしより小説を書きたかったかもしれない人たちの思いとか、待っててくれている編集者さんとか、そういう事を思うと、
すべての出来事よりも書く事を優先していのちを燃やさねばならないのだと、強く思っていた、思い込んでいたというべきなのかもしれない。
そういう意味では、世間的にはそんなに知られていないけれど、お仕事はずっと頂けていたから、まず小説、執筆があって、そのために夜働いたり、他のもの(それは恋愛でさえも)を配置していくように、
2009年から2015年までの7年を生きてきた。
2012年から単行本を出していないのは、やはり何より「船パリ」を上げなくてはいけないと思っていたからで、書き上がってないものを置いておいて他の文芸作品を書くことなどしてはいけないと思っていたから、せめてライトノベルならばジャンル違うしお受けしてもよいか・・・みたくやってきてたんだけど、大事なことを忘れていたよね。
物語から人生が生まれるのではなくて、
生きとし生きる日々の中から物語が生まれるのだということ。
生きてさえいればまずはよろし、ということ。
この数年の間にほんとにかけがえのない人を幾人もーーもはや幾人も、と言える数になってしまったーー失って、その人たちがいのちのきわに、それらをわたしに教えてくれたから。
仕事なんていうものは、生きている日々についてくるものであって、
順番を逆転するほどのものではないのだ、ということを。
だからわたしは、やらねばならぬ何かに向かって書いたりすることはもうやめて、
日々の中から生まれおちる物語だけを書き溜めていこうと思う。
それらが出版向きではない場合、世に出ないかもしれなくとも。
そんな感じに始まりました桃果子的宇宙(モカコスモ)をよろしくお願いします!!
一応職業が小説家なので、刊行されている小説の引用や、たんすの肥やしになってしまっているいつかの詩なんかの抜粋とかも、写真に添えて、お届けしていこうと思うわ。
ハッシュタグはたくさんするよ!
同じ気持ちの人たちに、見つけてもらいたいからね!
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