執筆メモ

2013年2月22日 (金)

執筆メモ♡フルール

今日はとても冴えているので、プールでふと降りてきた閃光のような思いつきを、数時間かけて練り上げて、裏付けしながら連載のプロットを構成しています。
「魔女と金魚」以降あんましやってなかった「ありそうでない世界」の勝手構築があまりに楽しくてこれが官能小説であることを忘れそう。
この世界観の設定自体が匂い立つような雰囲気に満ち満ちているのでもうセックスシーンいらなくない?って気分ですがそういうわけにはいかず。
ああ。この作品きっと凄く独特の色香のある世界になるから、ラノベだと思わずにみんなに読んで欲しいな。ムーランルージュやバーレスクや歌舞伎やキャバレーやら、アングラ演劇やら。自分はやっぱりそういう楽屋の香りが好き。
煙と小屋と照明と白粉とかの混ざった匂い。

「すべては濁光の下にあって美し」
「楽屋の猥雑な脚」

このふたつの言葉はいったい誰のものであったか。
船パリの時代考証で得た猥雑な色香の、船パリの純情では使いこなせない、
こし器の布にくすぶったままの残り糟を筆につけて、
華々しく春画を描いてやろうではないか、この「ラノベ」という屏風の上に。

春画の特集をした芸術新潮では春画は「日活ポルノと同じ。ポルノ、という口実のもとにありとあらゆる芸術的な実験をしている」
と書かれていた。
きゃりーぱみゅぱみゅも同じ。「カワイイ」という、ひょっと入りやすい入口の奥で、なんとまあ前衛的な芸術を、彼女は意図的に繰り出していることか。

通勤時間の隙間にさささっと見ればいいと思っていた人たちが、家に帰ってもう一回ゆっくり読もうと思ってくれたらそれはもうひとつ垣根を越えたことになる。
屏風に描かれた猥雑な脚を、ひとはどう見てくれるだろうか。
その楽しみに向かって今から色々「実験」する。
みいきが忘れたこの花は、世界観が色で溢れるように。
添えた春画お猪口は、これがそもそも官能小説であることを忘れないため。
この写真みたいな小説ができたらいいね。

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2013年2月 9日 (土)

おじいちゃんの大正ロマン

これは、正確には「不思議な木曜日」以降、連鎖して起こっている面白いできごとの話です。1月の大雪の前日から始まった『へんてこなこと』は先週の木曜、わたしが松本からやってきたとても不思議な人との体験でもって山場をむかえ、そこからちょこちょこその余韻みたいなものが続いているのだけど、今日はなんだかお告げのようなできごとがありました。
「起きたら寝室の窓を開けて、今日もいい日にするとお日様に向かって言う」
ということを今日初めて実行した次の瞬間、母から電話がかかってきた。

ママが言うには、いまおじいちゃんが2時間かけて懇々とママに話した大正ロマンの話をちょっときいてくれという内容で、船パリが昭和3年で止まっているわたしにとっては大変興味深いことだったのでわたしはフンフンと聞いた。

おじいちゃんは最近どうも、生まれたあたりの記憶を断片的に思い出すのだそうだ。そういうことをこないだおばあちゃんも言っていたから、ひとは晩年になって、急に自分がとても小さかった頃のことを思い出すのだろう。うまくいえないけどベンジャミンバトンのような心と体のリンクが、生まれた頃=晩年って感じで起きるのかもしれない。

いままでおじいちゃんは、最初の記憶は「丹後の地震」だと思っていたそうだ。ところがそれより昔の記憶があることを最近思いだした。
おじいちゃんはお馬さんに乗っていて、なぜだかとてもお母さんに会いたい。
でもそうすると「ねえや」が「いまお母さんは赤ちゃんを産んでるから会えへんのやで」というようなことを言う。小さなおじいちゃんはますますさみしい。
そのとき屋敷の前にあったカフェ(おそらく純喫茶)から、なんとももの悲しい歌が流れてきたという記憶だった。
※うちのおじいちゃんは8人兄弟の5番目で、そのころまでは大変裕福でありました、しかしこの数年後株で大失敗をして、没落する。なので我が一族は株は一切やらない。残ったのは300坪のお屋敷のみ。だからおじいちゃん家は築100年以上(!)

そしておじいちゃんは、その生まれた子をずっとすぐ下の妹だと思っていたけど、
実はその間にひとり子がいて、生まれたのだけどすぐ死んだのか、はたまた死産だったのかはわからないが、とにかくそういう兄弟がいたことをおじいちゃんは今記憶として思いだしたのだそうだ。家族で弔いをしているなか、なにもわからない2歳のおじいちゃんは、はしゃいで駆け回り、それをみて家族はいっそう泣いた。
「大正15年の暮れの話やった。15年の暮れに生まれて昭和の初めに、死んでいった子がいたんやわあ」とおじいちゃんは先ほど電話口で泣いた。

船パリの大正15年暮れ。なにが起きるかはまだ言えないけれど、いろんなことがリンクしてわたしは驚いた。
母ちゃんが恋しくてたまらなかったその日に、カフェから流れてきた歌は「紅屋の娘」というらしい。
you tubeで調べるとなんと歌っていたのは「佐藤千夜子」だった。
佐藤千夜子……
船パリを書く上の時代考証で、切っても切り離せない歌手が、佐藤千夜子そのひとである。心臓の手術をした次の夜、わたしは病室のベッドで彼女の伝記を読んだ。

なんていうか「雪を見てみたい」と思いながら雪を知らずに生きてきて、ある日起きたら外が真っ白だったような、
「お肉ってどんな味だろう」と思っていた矢先に目の前にその血肉の塊をどんと置かれたような。
わたしが空気のようなものに思いを馳せ、なんとかその空想や憧憬の塊を形にとらえたいと、綿菓子をつくるように紡いできた船パリが、
急に自分のおじいちゃんの最初の記憶としてドカリと目の前に現れた。
空ばかりみていたのに、ものすごく太い根のついた切り株を置かれた。

おじいちゃんに「紅屋の娘」を、聞かせてやろうと電話をして、電話口からその曲を流したら、おじいちゃんはひとこと
「大正ロマンやなぁ」と言って、泣いた。

船パリの中に「紅屋の娘」をどうしても入れなければならない。わたしはそう思った。シーンはもうある。昭和15年の暮れから昭和元年の年越しのシーンがもう、船パリにはある。そこにこの曲を入れなければならない。
わたしは強くそう思った。
昭和3年で留まっていた船パリがラストに向けてようやくもういちど出港するときがたぶん、きた。
その汽笛を、おじいちゃんが鳴らした。大正13年に生まれて、昭和のはじめに兄弟を亡くした、わたしのおじいちゃんが。その血潮の先にいるわたしが、この2013年に大正を書く。

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2012年9月23日 (日)

つゆのあとさき

【銀座6丁目のダンスホールを経て乃木坂のカッフェーで働く女給モカコ】

『女給の君江は午後からその日は銀座通りのカッフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で降りた』

これが最初の2行。
この2行だけでいろんなことがわかって収穫もさることながら、市ヶ谷本村町って馴染みの店があるところやん、ほんでまさに「市ヶ谷本村町の貸間」にそのお店のオーナーはお住まいではなかったかい?(。・・。)/
そんなことで一気に親しみやすくなった永井荷風の「つゆのあとさき」

四ッ谷から神楽坂へ向かうあの大通りの感じとか、日比谷から数寄屋橋に高架をくぐってぬける感じとか、店終わりの君江を懇意の客が四ッ谷まで追いかけてきて
「荒木町か牛込で一杯」と誘い、結局神楽坂の待合(平たくいうとラブホ)に円タクを拾っていく流れとか、描かれている建物とかは昭和初期のそれだけど、いまの東京に置き換えても身近な話題だし地理も頭にはいってるとなお面白い。

永井先生の描写になぞらるとさしずめわたしは、

『芝居を志し銀座の6丁目のダンスホールに四年程いた昭子はわけあってそこを辞め、その後芋洗い坂の歌声喫茶、カッフェー・オウルウェイズの女給に落ちついた』

ということになります。昭子はその後、文壇にデビユーし桃果子と名を改めたがいまのところいまいち売れ行きがかんばしくないのと、そのカッフェーへの思慕もあいまって、週に三度ほどはそのカフェーに顔を出し、姐さんと円タク(いまは千タクだけどね)にのりあって霞町の交差点を横切り家路につく…笑 
うん、わたしライフもなかなか江戸前。
ちなみにカフェーはいまでいうクラブとかキャバクラとかの類い。まあオウルウェイズはスナックですけど…

しかもわたしが小説中につかっているカフェーの名前と永井先生がつかっている名前になんと笑えるシンメトリーがあったこの奇遇さよ!笑
刊行した船パリを読んだ人は、「”つゆのあとさき”に影響をうけてこうしたのね〜」と思うでしょう。が、そうではないことを友人達には知っていてもらいたいぜ!
これはまったくの偶然です!
↑と、いつかウィキペディアに書いて欲しい……いまはページすらない…
そして限りなく永井ワールドに近い発想までわたしはきていた……というか置き換えてみるとまるで平成の”つゆのあとさき”のような暮らしをしている自分がここにはいるのでした。

大正投稿ばっかですいません。しかしアマゾンてもうほぼアスクルだよね「明日来る」もんね。永井先生は夜の世界では有名な遊び人でございました…。
そしてこの頃、渋谷とか新宿はまるで田舎だったから、だいたい銀座から人は牛込や神楽坂や四ッ谷に流れていたみたい??大正〜昭和初期の小説には渋谷や新宿で遊ぶ描写がまったくありません。
それを思うと市ヶ谷本村町、荒木町、神楽坂あたりで飲んでいる近年のわたしの遊び方ったらとっても昭和初期!!注:近頃待合には行ってません!笑

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2012年9月22日 (土)

浪漫子

とりあえず歴史という歴史を片っ端から浪漫に変えているいま。

アールヌーヴォ→巴里→船→恋=浪漫。
ジャズ→お酒→ダンス→密着→口づけ→浪漫♡ 
着物→脱がせる→男が着付ける?→浪漫。
山の手線開通(1925)→男と女も開通?→浪漫♡

え〜浪漫はいかがですか、浪漫のてんこ盛りはいかがですか? 
もはや昼ドラのプロットとか書けそう。いやしかしドロドロはいらなんです。
浪漫子だけで大変結構。昼ドラ的ロマンス−ドロドロ それは巴里。
ああ、寝みだれてアールヌーヴォ〜、アールヌーヴォ〜みだれ髪。

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2012年2月24日 (金)

2月の近況報告Ⅱ(2週目)

2月9日(木)日本郵船歴史博物館へ行きました。
ちほと一緒に氷川丸。ちほは船パリの前身お話「月子とイグアナ山椒魚」の登場人物の串田まどかのモデルです。串田まどかと船に乗ればなにか物語が始まるかもしれない。篠山月子(みいき)も連れてゆきたかったが今日のところはまず様子見。

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1936年8月12日浅間丸のディナーの復元。

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氷川丸。

Almporkceaaocjb 船とかもめ(*´˘`)♡

船内はとてもアールデコ↓
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↑なんだっけな、花ナントカっていう毛布のたたみかた。一等船室だったかな。

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この階段を見てわたしたちが思いだすのはあれしかありません。

とまあ写真で見るとダイジェストな感じですが、かなり前進と呼べる一日でした。

「大変有意義かつ物語に染まった一日でした。こういう日々だけを送っていけたらどんなに幸せだろう。小説と芝居だけが交互に訪れる日々 ー日記よりー」


2月11日(金)〜2月12日(日) ちょっと船パリ休憩。

ブログにはかかれていなくても基本的には船パリのことをしているのですけど、
この3日間は、尊哉の出演舞台の稽古代役(病欠の役者のため)と、同時に滋賀からいとこの香央里がきたためバタバタして船パリはちょっと休憩。

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これいとこの香央里です。モデルになったらいいと思うので、モデル探している方は連絡ください。

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2012年1月 9日 (月)

【かぎりなく完成に近い執筆メモ/JUNE】

ヘルシンキからのブログ更新を楽しみにしてくれている人ごめんなさい。
ここ2日執筆に傾いてずっとホテルにいます。一昨日街にでた写真もたくさん載せたいのだけどすこし待ってください。けれども執筆に傾いているのはこれはこれでなにより喜ばしいこと。

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ーJUNEー
その名前におののき、その存在に翻弄され、それでもなお、
わたしはあなたのことが知りたい。

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知らなかった。誰かに心底惚れるということがこんなにも世界から踏みはずれていくことだったなんて。終わりのないものに出会うということが、こんな風に踏み外していく見知らぬ自分をも受け入れ飲み込んでゆくことだったんて。
まるで夜の森みたいだ。
愛しあうことはもっとやわらかい、午後の紅茶のようなものだと、わたしは思っていたのだけれど。

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昨日一日悶々として、ようやくあたしの頭の中でJUNEが完全に再構築されました。
昨日、ヘルシンキですべきことの9割が終わった。

頭の中で全部の編集が終わって一本の映画ができたといってもいい。
あとは、頭の中でボタンを押して、流れ出す映像を怒濤のように書き落とすだけ。
もちろん油断はできないけど、ここまでこれたことを非常に喜ばしく思う。
書き落とすための言葉がいまどこにいても流星群のように落っこちてくるのでそれを拾わなくてはえらいことなんで、今日は街にでるのをあきらめて、溢れてくることばを必死にメモしている。

小説を書き出すまでにその輪郭をとらえなくてはいけません。仏像を彫る人が、何日も木の塊を眺めて、ディディールまで見えたときに一気に掘り出すように。
それをaccoは準備体操といい、わたしは普段「暗闇に目をこらす」と呼んでいます。
しかし、どこにいてもすぐその世界にDockできた2009年と違って、2011年は目をこらしてる最中に電気がついてしまうことがすごく多かったきがする。地震とかで日本がぐらぐらしていること、じぶんをとりまくしがらみやなんか。そしてわたしはわたしの小説をたくさん取り逃がした。ほぼ失敗だったと言ってもいい。
(これは物語になりえなかった小説のことです。物語のかたちになったものに失敗はありません。そもそも、物語に失敗などありません。地球と同じですから)

おとといフィンランドのサウナでaccoが言った準備体操について考えていて、ああ、こんなところまでこなくてはいけないほど、わたしから小説はほんとに遠ざかっていたんだなあって実感した。
でも作品がわたしをここに連れてきてくれた。
10年前にわたしの体の中に初めて降りてきた物語。JUNEがわたしをこの国に連れてきたのだ。そして物語の答えはすべてこの国にあった。
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おととい街に出たときその本屋で、わたしは一冊の写真絵集を見つけた。それはJUNEそのものといってよかった。JUNEのすべてがここにあると言ってもよかった。わたしは迷うことなくそれを買った。
なによりもフィンランドらしい買い物だったと思う。この本だけはぜったいに他の国で手に入れることはできない。

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マニアックすぎるこの物語をどうメジャーなもの、マニアックメジャーなものに仕上げるかが1番の課題だった。JUNEはわたしの心に寄り添いすぎているあまりにわたしが書くものは抽象的で感覚的な詩のようなものになってしまって、初めてこの世界に足を踏み入れる読者との間に温度差があってJUNEを伝導できない。
わたしがJUNEの世界に溺れすぎているし、重なりすぎているからだ。
そんなことを考えながらプールで泳いでいたとき、あるひとりの女の人がわたしの中に現れた。
まっとうな、とてもまっとうな女の人。あるいはまっとうだった、女の人。愛し合うことは午後の紅茶のようなものだと思って、実際そのように日々や恋や愛を重ねてきた人。

じぶんでもありJUNEもありじぶんの世界のすべてだったこの物語が、このひとりの女性から見えた「知らない世界」としてスタートを切ったとき、
この小説はほとんど成功に近づいた。 JUNEが主役を彼女にゆずったことで。
いや、主役はいつだってJUNEだ。
けれどもこの物語の主演は、その彼女がつとめる。

頭の中でばらばらになっていたちぎり絵は、なんまわりも大きいカンバスの中にコラージュとしてレイアウトされた。そして余った白いところに、いまからわたしは絵と色をいれていく。いや、もう頭の中で絵も色は入っている。そのイメージ通りに塗りこんでいくだけだ。その作業をいまから行う。

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2011年12月30日 (金)

「入り口の中は出口の外」

これは執筆メモです。
この日記には作家のわたししかいません。
感情や感覚の羅列ですが、
わたし自身が倒錯してるわけではないのです。

ー女たちはそれぞれみんな、じぶんだけがその男の心の深遠にいちばん近いところにいると思っている。女はみんな、じぶんだけがその男をいつか変えられると強く信じているー 

『男が周りの女を邪険にあつかい自分が大切にされている間は、じぶんだけが特別に扱われていると思ってうっとりする。
次に軽くこづかれるようになると、心を許してもらえたと思ってうっとりする。
思ったより強くどつかれたとき、最初戸惑うが、じぶんにだけ甘えてくれたのだと思ってうっとりする。
ひどく殴られるようになってからはもう、彼がこんな一面を見せるのは自分しかいないと思い覚悟を決め、果てにはこのからだの痣が消えないうちにまた強く齧られたいと願うようになる。 入り口に深く足を踏み入れた瞬間その足はもう出口の外に出ていて、中には実体がない』

光が強ければ影も濃い。深く愛せばその裏側も。
それらをぜんぶのみこんで、出たり入ったりをくりかえして、なおその入り口に向かってにまっすぐ走っていけるとしたら、それは愛ですか。狂信ですか。
愛と狂信はどう違うのだろう。
それが狂信だったか愛だったかなんてきっと死ぬときにしかわからない。死ぬときにもわからないかもしれない。

わからないってことは。それらがほぼ同じだってことを意味する気がする。

************

深夜にぱっと起き出して、何かが降ってきたので忘れないうちに言葉を羅列している。これは執筆メモ。この感覚がひさしぶりなので自分がようやく自分の軌道に近いところまで戻ってきた気がしてすこしほっとする。

まったく修羅場な年越しで元旦から大嵐、それが不吉なお告げであったかのように、クソなことしかなかった2011年もあと2日で終わってくれる。もう何も起きないだろうと思っていても12月それなりにクソなことは起きて、23日の大不整脈発作救急車事件のあと、6年働いた大事なお店のファイナルに激風邪が重なるという朦朧にして怒濤な日々を終えた今日、あと2日と言えども油断はできない。何が起こってもおかしくない。
しかしまるで悪いモノがからだから出て行くようにまる1週間体調をひどく崩して、その間に「恋の罪」を2回観に行き、もうすこしで抜けられそうだと感じていた。何かからはわからない。でも何かかから抜けられそうな気がする。

なにか新しいものを書きたいと思っていた。いままで書いたものとは違う新しいものを。そうすればこのクソな2011年にからだで受けとめた混沌を、胸に沸き上がってきた塊を何か素敵なものに結実できる。かといってこれまで幾度か書いてきた、とくに今年発表してきた私小説のような、日記と物語の挾間のような、知人が読んだら「これは誰々ね」とかわかるようなものではなくて(今年はあえて、ある段階としてそれをし続けたのでそれでいいとして)もっと小説として独立したもの。なのにわたしの心の深遠に1番近いもの。私生活とは完全に乖離しているのに内的には劇的に密着しているような。
私生活に対しても小説に対しても。潔いもの。を、書きたい。
でもその交点が見えない。

いままで書いた作品をすべてとても愛しているけど、もっと違った段階のものを書きたいと思っていた。
もっと他人にも自分にも厳しい小説。読んだ人の心を射貫く、ある種磨き上げられた鏡のように怖ろしい、きけんな小説。
でもそれがどういったものかわからなくて、作品もプライベートもどこか消化不良。納得していないんじゃない。長く生きられないきがしているから、常にその都度のベストを尽くしているし後悔はない。どんな結果になっても納得していることだから自暴自棄になったりしない。でも何かわたしがモデルチェンジしないとその段階にはいけない気がしてて。
なんなんだろう、この半端感は。定まらなさは。
それは感情や状況ではないんだ。いま私生活の現状がどうこうで、とか、いまのわたしの恋愛がどうで、とか、わたしと誰かの二人称あるいは三人称とは、まったく関係なくはないとしてもそういう類の話ではない。
もっと誰も関係ないわたし自身のもんだい。

その答えが園子温の作品にある気がして、一回観て、もうすこしでなにかをつかめそうな気がして、高熱をおしてまた今日も行った。前回呆然としすぎて買い忘れたパンフを絶対買わなくてはいけないと思っていた。そして、探していたものの答えのようなものはそのパンフのなかに全部あった気がする。

「入り口の中は出口の外」という言葉は、「恋の罪」のパンフの中で園さんが紹介していた歌の歌詞。

園さんが、作り手の僕が観客の想像力を限定させることは避けたいのですが、と前置きをして言っていた言葉が
つまり、愛の実在というものを考えていくとある種の迷宮感に突き当たる
という言葉でした。

結局やっぱりわたし自身の生き様が半端だから、新しいものが書けないんだ。
斬新なものとか奇をてらうものといった意味じゃなくて、
作家「中島桃果子」が作家としてではなく女として正しく歳を重ねて少しずつだけど変化し、その都度ちゃんと女をしているのだという新しさ。女としての新しさ。

新陳代謝をしているということ。

作品はあたしのからだの中にしかない。肝心なのは女のあたしであって、作家のあたしじゃない。
誰かに心底惚れたなら、その深さの分ちゃんと狂信的になり、きっちり傷ついて、きっちり信じて、きっちりぶつかり、ときおり渇いて、ときに絶望して、それでもなお惚れ抜けるか。熱量と純度をもってとことんもがけているか。
なにがどうじゃない、堕ちるならかっきり一度堕ちて、抜けるならカツンと抜けていけということなのだ。

迷子になることにおびえるな、正しく迷子になれ、ってことなんだと思う。

あたしが死ぬまで作家である限り、まっとうなことや道徳的に正しくすてきなこととか、人が考える幸せの形なんて正直そんなのなんの足しにもならない。あたしが女であるのと同じ分量作家でいることはもう宿命なのだから。
その時点であたしはもう、大きく踏み外しているのだそもそも。
肝心なことは純度。そして熱量なのだ。かっきり堕ちるか、カツンと抜けるか、どっちでもいいから半端でないこと。

セックスで繋がれば自分てわりとぞんざいな立ち位置なんだなと思うし、セックスをしなければしないで抱きたくない程度の気持ちのかと思うし、
生活や金が介在すればそのために傍においてるのかと思う(だろう。わたしは生活を介在させたことがないので予想だけど)

もちろんこれは全部「裏側のこと」を言っていて、
わたしは基本的にはもっと「表」のことを信じている。
「愛」の裏側に「狂信」があるとしたならば「愛」を強く信じているし、これまでもそういった作品を一貫して書いてきた。

だからきっとこれから先どれだけきびしい恋愛をしても、または周りに厳しく見える恋愛をしたとしてもわたしは基本的には日々幸せだ。なぜなら愛ありきのことで、その愛に納得してじぶんがしていることだから。信じているから。

でも逆に、だからこそ、信じるモノは変わらないのであるなら、その裏側を書いてみてもいい。きっとそういうものをいま書きたいのだ。
あたしはきっと、小説の中できっちり堕ちたいのだ。

そして、小説の中できっちり堕ちることができたなら、
その小説を書き終えた瞬間に、
わたしの人生はきっとカツンと抜けていけるだろう。
きっちり堕ちてカツンと抜けたい。

そしたらきっと愛だけが残る。

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2010年11月17日 (水)

ボヤージュ

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『わたしのお姉さんの周りにはすごい人がたくさんいます。お姉さんもすごいです。
お姉さんはピアノを弾きます。とっても素敵なピアノを弾くのですが、お姉さんいわく ”人前では指が震えて弾けないから、身内の前で弾けても無意味” なのだそうです。たしかにお姉さんが、たくさんのひとの前でピアノを弾いたのをわたしはみたことがありません。けれど、数少ない、親しいひとたちの前で弾くお姉さんのピアノはとても素敵で、たまに歌う歌には香りがあって、それだけでわたしはお姉さんを、とても雲の上のひとのように思うのです。
そして雲の上にお姉さんのともだちはたくさんいます。
学者さんや、有名なお菓子職人や、画家や、俳優さんまで。

雲の上にそれはまあたくさんのおともだちがお姉さんには居て、
お姉さんはこのたび、そのおともだちと、パリに行くことにしました。
お姉さんはわたしより8こも年上です。
お姉さんには素敵な彼氏がいて、けれどもお姉さんいわくそれは”もろもろをスムーズにするための契約の恋人”なのだそうで、くわしいことはわかりません。
髪をきれいに巻いて、いい匂いのするお姉さんをとりまく世界には秘密がたくさんあって、いくら背伸びをしても、わたしにはその秘密はあまりよくわかりません。

けれどもその秘密のおかげで、わたしも船に乗ることができるようになったのです。パリまでは船でひと月、16万円(※現在の100万)もかかります。
そのお金をふたりぶんも、どのようにしてお姉さんが調達したのかはわたしにはわからりません。けれどもいまこうしてわたしは、お姉さんとお姉さんの雲の上のおともだちと、こうして乗船を待っているのです。

お姉さんの雲の上のひとたちはわたしにとても優しいです。
けれども、わたしだけが、みんなと違うことをわたしはわかっているつもりです。
やさしくて気取らないおともだちも、ほんとうはみんなとてもすごい才能をもっていて、わたしには何もありません。

わたしには何もありません。

ほんのすこし気立てがいいくらいがとりえで、
ほんのすこし、音楽や、芸術や、そういう素敵なものに感動ができるくらいで、
わたしはとりたてて何もできません。
わたしはお姉さんやお姉さんのおともだちの才能に乗っかって、いまここで、みんなと居るだけのことなのです。
お姉さんがいくら、それは違うと言っても、わたしにとってそれはそのとうりで、そんなとき、血の繋がったはずのお姉さんをとても遠く感じます。
お姉さんのいい匂いや、きれいに塗られた赤い爪に、胸が苦しくなります。
同じように爪をぬっても、髪を巻いても、わたしはお姉さんや、お姉さんのともだちとはちがうのです。たとえ、同じ場所で同じ飲み物を飲んだとしても、みんなにはなれないのです。

けれども、たくさんの人がそれぞれの想いでこの大きな船に乗るのなら(荷物はひとり300トンまでオーケーなのだそうです)
夢と、ちいさな希望しかないわたしも、人混みに紛れて、旅を始めてもいいのかなと思ったのです。お姉さんやお姉さんのおともだちと、おなじ景色を見て、それでいつかお姉さんたちと同じことを分かち合える目の高さまで、わたしも背伸びしてみたい。
みんなと違って、小さなトランクに、いま、大切なものは何も入っていないけれど、いつか帰ってくるとき、このトランクに、なくしてはいけない大切なものが入っていたらいいなって思うのです。

300トンの荷物に紛れて、いまはお荷物でしかないわたしも、一人前の人間になれるように、みんなと一緒に出発します。旅立ちはドキドキします。
そしてこのドキドキにおいて、わたしはきっと、お姉さんやおねえさんのともだちの誰にも負けない、いっぱしのドキドキを持っているって、

そう思うのです。そう信じたいのです。』

オールウェイズに、めんたろうが来て、岡田が来て、みいき(妹/ねじ物販)が来て、まいち(ねじ映像)が来て、もちろんれいこさんがそこにいて、あやめが来て、なんと、別に父親まで来た日、まるで大集合、カオスの気分だった。
みんなでわいわい飲んで、歌を歌い、酔っぱらっていく彼らを見ながら、からまりまくった人の縁をすこし幸福に思った。わたしが大切に思っている個々の人たちがが、どういったわけかいまここで一緒くたに笑い、時を過ごしている神秘について考えた。
昨日、船パリの取材で言ったイタリアンの、優しくて温かいオーナーの彼も、
今日ここにいないふたりのねじメンバーも、みんなをここに呼びたい気持ちになったりして。無駄にここにいない仲間に写メールを送ってみたりして。
一緒にいなくても一緒にいるんだよ。そんなことを思ってるうちに、なんだかこのひとたちみんなが実は船パリの登場人物なのではないかと思い始めた。
これからどんな船旅を一緒にむかえ乗りこえていくかはわからないけど、
どきどきわくわくする乗船の前の気持ち。
でもきっと、このみんなでなら、いつか死ぬときにふり返っても、納得のいくような地図を描ける、そのためにみんな、ちょうど絵の具をもって集まったような。

♪好きな人やモノが多すぎて、見放されてしまいそうだ~

好きな人やものが多すぎて、泣き出してしまいそうだから、
船パリの冒頭部分イメージをいきなりノープランで書いてみたりして。

写真は、いち早く船パリモードの銀座キラ星のチラシ。ああ、こんな感じだよ、まさに。

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2010年10月 2日 (土)

執筆メモ/ソラリ

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昨日、完全に千早茜さんにノックアウトされた。
これぞ「千早茜」って感じだったよ。
「おとぎのかけら」ためいきがでるくらいグロテスクだった。白雪姫の話が好きだったな。
同い年の同年デビューなんだよね。
朝井くんといい、千早さんといい、小すばは、ジャンルを超えてすばらしい作家を輩出し続けるね。
妖しげな魅力に惹きつけられて、あたしもひさしぶりに物語の海に戻ってきた。信者Aの登場人物に憑依してしまったり、思い入れたり、いい傾向だ。
これぞ「中島桃果子」っていうものがどういうものかはわかんないけど、まずは、

わたしがわたしでなくならないと。

わたしの悩みと依子の悩みは同じようで違う。

変な話だけど、自意識ってのが完全に抜けおち、削げた段階で、ひたすら登場人物を追いかけてさ、そこに初めてあたしの信じるゆるぎない「あたしの世界」ってのがひらけるんだよな。
それを読者とシェアできるかはその後の話。

そこまでいくとだいぶいい感じ。昨日すくなくとも名前が決まった。
「依子/よりこ」と「初海/はつみ」

初海がここで来たってことは、きっとこれすごいだいじな作品なんだね。
息子につけようと思って、登場人物にはつけなかった名前。
ってことはきっともし息子が生まれても、初海って名前にならないんだな。
それよりなんで息子って思ってるんだろう。

理由なんかいつも後から。あとから、わからされる。

タイトルも「ソラリ」に決まった。

ソラリとはソラリゼーションのこと。
『ソラリゼーション=現像時に、光を過多にすることにより、モノクロの写真作品の白と黒が反転する現象』

さてどんな話なんだろうか。少なくとも今わかっているのは、依子は華奢で、ずいぶん色が白くて、よく笑うということ。

あ。それってもうわたしじゃないね(笑 そういうときすこしほっとするの。
依子よ、どんどん、ひとり歩きしてほしい。
わたしに密着した物語ほど、遠くまで歩いてほしい。

わたしはじぶんを捨てて、依子と初海の世界に深く浸水する。

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2008年2月 3日 (日)

休暇

休暇とはいえない休暇を今日から10日強とります。
そのために、一月は働きまくって、しんどかったなー。
お酒が思ったより飲めなかったり(あたしの仕事場はどこにも酒がある)

あまった時間は9月に向けての準備に大忙し。「今」やっておかないといけないことってたくさんあるんだよね。
いろいろ考え出すと目が冴えて眠れないし。

でも仕事運、というか、不思議とね、そういうときに、新しい出会いとかがあったりしてね、おもしろいんだよ。


しかし休みを10日もとると、生活はギザ?苦しくなるのに、
やることはぜんぜん、おわらなそう。。。

前半3日くらいは企画のことについえそうだし、
のこり7日で果たして、何本作品が書けるやら。。。。。


不安。だ。


絶対に猫が必要ね(笑)

原稿用紙と猫とこたつじゃない??
向田邦子のように(笑)


実家のおばあちゃんちにコモル予定でしたが、
accoとの宣伝美術に関するミーティング、そしてに知り合い2人にBabyが生まれたので、久しぶりに会いたいし、んでもってうちのママよ、
「みんなで温泉いこーペンギン
って。(笑)

うちのママはおもしろいんですが、努力を強いる母のくせに、人がストイックにやってると邪魔してきますね(笑)
「一緒に温泉いこうよいい気分(温泉)大丈夫、書ける書ける」
みたいなね。

正月に、
「パリへ行って書こうかしら?」
なんて冗談いってたら
「ふざけるのもたいがいにしなさい!」
って切れてたのに…。

わたしおひとよしなんで手(パー)、東京にいると雑事にふりまわされて、何もできずに終わりそうだから滋賀に帰るのに、

滋賀にも誘惑はあったか。。

呑気に書いてるけど、

ポケットが欲しいわ。

地球の別側のチャンネルにぷらっとぶら下がったみたいな。
そこに机とコーヒーと、原稿用紙と(気分だけ)PCと、ぽいぽいって投げて、そこにダイブするのだ。

ポケットの壁は低反発マクラみたいな素材で、
煮詰まったら顔を押し付けたり、椅子ごと後ろにひっくり返って、そのまま二時間くらい寝ちゃうの。

起きたらもうコーヒーが入ってて、まわりはびっくりするくらい静かなの。音のない世界。

たまにたいくつな白猫とじつは淋しがりやの黒猫が
「にやー」
って、あたしの足元に現れたりして。

いいなあ。ポケット。


でも今日みたいな、くもり空の雪の日に、お家でのんびり日記を書いて、オーディオも消して、
ガスヒータと時計の音だけがするこんな午後は、
ポケット感がある。

そんな日にストーブの上でりんごを焼くと
「憂鬱な魔女」になれるわけだ。

憂鬱な魔女は
ブーツを履いて、
夕飯の食材と、新しいほうきを買うの。


乗れないんだけどね。

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