10月になりました!
あっという間に10月になりました。
9月は頭の方に弾丸で香港へ行っており、
その後「ユカワさんのこと」に追われた9月でした。
「ユカワさんのことに追われた」ということで物語的解決のような感じになっているけれども、実際ユカワさんて人がいたかどうかはわからないし、
得体の知れない何かに全てをなすりつけて解決しようとしたというよりは、
複合的に自分を追い詰めた夏というものに「ユカワさん」という名前をつけたようなもので、実際のところ、それはわたし以上でもわたし以下でもない問題だったように思っています。
いろいろ途中ははしょるが、とりあえずわたしにはラグジュアリーが足りないのだ!と、いうことで帰国後、長谷川時雨さんのお墓まいりに行ったりはあったけれど、基本的にはゆったりとした時間を過ごすことに注力することにした。
注力というのは「赦す」という意味。
4月から書きかけの小説があって、
それが生活や体調など(そして体調など)によって、
思ったように進まないことで、生活も、心も随分追い詰められてしまった感があり、なので働ける時にうんと働いて、執筆時間を割こうとする、短期決戦型の考えを遂行しようとしては体力が追いつかずダウンをするということを繰り返した結果、自分に1秒たりとも「ゆったりとした時間」を赦していないということに気づき、それがストイックに作用して結実していたらまだ良いのだが、
結局体調がすぐれない時とかは当たり前だけどもダラダラしているわけで、
だったらもうそのダラダラタイムをセレブレーションしようか、という気分に、
香港から帰って、なったのである。
不器用貧乏というのか、
「ゆったり過ごせない」気分の中でせめて小説だけでも進めば良いけど、
結果何も進んでない、何もしていないのに、
気持ちだけがフル稼動、という感じになっていては人生どうなのよ。
小説を書いている時間以外の時間を全否定しているということは、
それは同時に小説の生まれてくる胎内の否定に繋がるわけだし、
トカナントカ理屈つけなくたって、だいたい小説を書いていなくたって、
懸命に生きているわけだしそれでいいじゃないの。
もっと健やかであれわたし。
けれども会うたびにいろんな人に「今はなに書いているんですか?」
とか「いつになったら売れるの」とか聞かれると、
勝手に、書いていないわたしはダメなわたし、みたいな気持ちになって、
わたしの心の奥底にある「この作品はじっくり時間をかけて焦らずすこしづつ書き進めないとダメ」という絶対哲学までも、蝕もうとするので、
なんかそういったものから自分を護るだけで全エネルギーを消費している気がするし、その前に訊いてくれる人たちも、実際そんな相手を追い詰めるつもりでは聞いていないわけなのだから、これもまた自分アタックなのだよね。
自分はたぶん、小説を書いていないと、みんなから見捨てられるような気がしていたのだと思うな。でもさそれは、見捨てられないために書かなきゃと思うだけの話で、純粋な胎動じゃないよな。だったら一旦それらごと手放してみない?
そういったような感じの9月だったように思う。
今つらつら書いたようなことはたぶん8月のテンションで、
9月のわたしは、時間をかけて肩の力を抜くことができたと思う。
今の自分は、時間をかけてようやく「そういったジレンマ」から抜け出せたように思っていて。
なので10月はとにかくゆったりと、ラグジュアリーに過ごそうと決めた。
なんかお気に入りの写真を集めて部屋に貼ったりとか、
ずっと欲しかったJo maloneのキャンドルを買ったりとか。
もっと、生きて元気なだけで最高なわたし、を豊かに肯定してゆきたい。
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