« イヤシノウタ | トップページ | 執筆メモ「目」 »

2016年6月24日 (金)

蛹(さなぎ)/執筆メモ

【蛹(さなぎ)】

執筆メモのような何か。

側近フォトグラファーMによるインスタ、モカコスモ”Mocastagram"を発動してからずっと、

実はこれを実行する予定でした。
ヘアメイクさんを入れての作家モカコ撮。
いつもは自分ブランディングをすべて自分でやっているので、可能性を広げるべく、プロデュースを全面的に”M”の視点に委ねての、ナチュラルで自然で、悲しげではなく温かい、”M”の見つめる、友人であり職業を作家としているわたしの撮影。
コンセプトを井川遙に定めて(すべてのファンの皆さん先に謝りますごめんなさい)、トリッキーでアーティなモカコではなく、オーガニックでニュートラルなところを目指した。

                             
「わたしはあなたを、普通に美しく撮りたいの」
「すぐモカコさん、陰(いん)に入るから悲しそうな顔やめて」

_4708                            

撮影の中で太陽をとり戻す。

自分の中にも闇や病みはある。けれど生い立ちや、わたしの持つ本来の雰囲気が全く「かわいそうな感じ」がしないため、
こいつは大丈夫だろうと思われる。そしてわたしが必要とした人は、見た目極端にかわいそうな感じの子にいつも流れた。

                             
「おまえはたくさんの人が周りにいるけど、あいつには俺しかいないんだ」

                              
10年以上も前のことなのにそう言われた時の景色を今でも覚えている。当時わたしは27になったばっかりで、正直なところひどく病んでいたし、本当はわたしだって、いや、わたしこそ、
あなたしかいなかった。

                              
男の人はいつも肝心なところを間違えていて、
そういう女の子こそ「俺しかない」と相手に思わせるポテンシャルを生まれつき持っているから、まわりには他にたくさん可能性があるわけだし、拾ってくれる男の人が欲しかったわけだから、
タイミングが違えば、あなたじゃなくても良かったタイプだと思うし、実際のところ、代わりを見つけたらあなたの前から去っていった。

そしてあなたが「俺じゃなくてもいい」と思っているわたしだけがあなたしかいなくて、あなたしかいないけど、あなたしかいない風には見えなくて、その後も何年も、
結局あなたしかいなかった。

                              
そういう恋愛をくりかえして、
わたしは自分自身こそが「俺しかいないあいつ」だということをどう表現できるのか、どうしたらわかってもらえるのかを、
きっと考えていたのだと思う。
それで知らないうちに、「悲しそうな表情」「悲しそうな気配」をなんとか纏おうとして、それが癖になっていたことにきのう、気づいた。

                              
滑稽な話だと思った。(自虐的な意味じゃなくて)

 

だって表面的な闇なんて意味がない。
相手はその奥にある圧倒的なわたしの光を見ていて、
その裏側にある、ほんとうの闇とか寂寞とかは見えないのだから。

複雑な家族構成の人間の中にも光はあるし、
つまり裏を返せば、恵まれた生い立ちの人間の中にも闇はある。

                              
だから、わたしの中にも闇はある。寂寞もある。
同時に圧倒的な光と太陽もある。でもそれは、わたし以外のひとも皆すべて同じで、それらすべて同じ分量ずつ持っているもの。
それが相手の目に映るか映らないかは、相手の持っている魂の目が「相手の何を見ているか」でしかなくて、
「わたし」が、それをなんとかすることはできない。

                              
そのひとにとって、わたし、が
「気にかけなくてもいいくらい大丈夫」で、
そっち、が「気にかけてあげていなくては死んでしまう」というのは、もはやわたしの領域を超えていることなのだ。

                              
はた、とそれに気付き、癖になっている悲しそうな顔をやめたい、と思った。馬鹿げているから。
でも時間をかけて作ってきたその「見せかけ陰(いん)」のわたしは、気がつくとそういう顔つきをしていて、
何度も”M”に「悲しがらない!笑」とダメだしをされる。

こんなに楽しいときに悲しがった顔をして、
すごく参っているときに、光に見えているなんて、わたしは滑稽だ。面白いという意味での滑稽さがある。

この矛盾をどう消化していくよ? わたし。
なんかその滑稽にどつかれるような形で、きのうわたしは、完全に目覚めた。Wake Up、した。ケイティペリー的に言うと、Wide awake、した。

まじ無意味、まじ無意味な出来事の数々。
ふざけたおせ。
つか、ふざけたおしてる。

自分が謎すぎて、謎。

まあそういう感じに陥った。
陥ったというか、おち上がった。

で、OK〜。って感じになった。

                              
撮影では、”遥”(ファンの方本当にすみません)な写真がたくさん撮れた。(素晴らしいヘアメイクと素晴らしいカメラマンのおかげです)

それらはおいおい太陽モカコな感じでいろんなところにアップしていく。それを見たらわたしがHappyに見えて、あの人がまた「モカちゃんは大丈夫」と思ってわたしのことを忘れてしまうかな、
とかはもう思わない。

                              
しょーーーーもない、から。笑。
それらすべて、逆向に作用しているこの滑稽な「なう」の中で。

人生の課題はいつも相手の中でなく、自分の中にある。そのねじれは、10年かけて悲しそうな顔を作ってくるような恋愛をしてきたわたしの過去の中で形成されている。

トリッキーでなくアーティでない写真がたくさん撮れたのに、
わたしがいちばん気に入ったのは、さっきカバーにしたこの写真だった。(結局ひどく傍目にはトリッキー感があるのだが)

                             
「なんか悩んで!うまく書けない時どんな感じになる?」

そのカットをいっぱい撮っている時に、
なんていうか芝居で即興をやっていて一瞬だけど感情がうわあああって憑依する時の感じがやってきて、元芝居仲間の”M”は一寸のブレもなくその瞬間を捉えた。
それがこのカバー写真である。「蛹(さなぎ)」と名付けた。

                              
わたしは小説を書きたい。文学を書きたい。文学を書きたい。わたしの中から生まれる、私だけの文学を、一心不乱に書きたい。
書きたい気持ちが泣きたいくらいに溢れて、喉元まで溜まっているのに、わたしはひさかたぶりに人を愛してしまって、
それはもうとても愛してしまっているので、それに紐づく諸々のこと、諸々の、もろもろもろろなそのことが、
わたしの後ろ髪を、引くなんて生やさしいものではなく、それは柔道の、返し技のように、わたしをねじ伏せ、わたしはこの3か月ほど毎日一本負けをしてきた。
そしてそのたびに「あー、死なない」と思ってきた。
大事な人たくさん亡くしたから、
死にたいなんて軽く言うのは嫌いだから。
でもさ、あー。やっぱり、あー、死なない。
死なないは死ねないではなく、死にたくない、でもなく、
死なない、という強い意思を表す。

                              
あー。あああああああ”〜〜〜〜。死なないぃぃい。
そういうこと。

                              
あの子は大丈夫と思われるときっと相手の心が離れていく。

                              
でも本当は知っている。そう思ってわたしが不安定になって小説を書けなくなっていくことがいちばん、相手を疲弊させているということ。太陽だと思われているわたしが曇っていくことがいちばん、相手を追い詰め、わたしといることを苦しいと感じさせるのだということ。

                              
小説家という職業をたまに恨めしく思うのは、自分に起きている出来事すら、小説家という視点で眺めた時に、相手の思っていることや感じていることが手に取るようにわかってしまうこと。

皆わたしが男心をわからないから「あちゃー」ということするよね。と思ってる。実は違う。逆。

                              
手にとるようにわかりすぎて、見えすぎて、うおおおおおおとなって、そうなる。手にとるようにわかったらそうしない?
そんなことない。手にとるように見えてしまうということは、おそろしいことでもあるのだ。好きな人の24時間が、スケルトンで視えたら、多くの人がたぶん狂う。

_6888                              

わたしに惹かれる人はわたしに太陽を感じて惹かれている。
だからその太陽が、自分のせいで曇っていくのはこわい。
重たいという意味のこわい。
太陽を感じてわたし惹かれる時点で、何かしらの錘(おもり)を抱えて生きててそれに疲れていたはずだから。
その癒しであったはずの太陽が曇って、
自分の抱えている錘(おもり)と似た気配になっていくことは、相手にとってそこいらのホラー映画よりも恐ろしい。

                              
つまりわたしは病んでも陰っても、すべて病み損なのだ。
そうしたらかまってもらえるはずの理想形に近づいていくほど、
実は理想からは遠ざかっている。
だから意味がないのだ、わたしが悲しくなったり不安定になったりすることに意味など。

すべてのものがシンメトリーであって反転している。

 _5127                             

だってこの蛹の写真は、わたしの中では最高にポジティヴで美しい写真であるにもかかわらず、

一般的に見たら、悩んでいて、苦しんでいるように見える、つまり「蛹の時期」に見える。

けれどもこの写真は、ほんとうはわたしの、もっっとも明るく、強い光の部分を表していて、命あるいは魂に近いものであり、
この写真が、わたしの中にある本当の闇とか病みの、ま対極にある。それが完全に、どう見ても「わかりづらい」という部分、笑、そこが、わたしという人間の、周りからの見えにくさ、なのだ。

その見えにくさ、に伴う誤解や行き違いがわたしの寂寞や闇につながって、だからわたしはヘドウィグに夢中になって、わたしの片割れを探していた。

                              
蛹のカバー写真と、コーヒーを飲んでいる遥的なアイコンとは、
コントラスト、に見えると思うけど、
そうではなくて同じ、わたしの中のいちばん尊い光の部分。

わたしは今日、強い強い光の部分だけを、2枚、選んだ。

そういうことなんだわ。

 

とにかくわたしは、わたしの後ろ髪を引っ張るエセ闇を、昨夜、光で瞬溶し、早ければ今夜から、小説にとりかかる。
純文学、を書くと思う。

そろそろ新潮社を、帰宅時にただ通り過ぎる建物、としていてはいけないと思うし、

タイトルは今の所「ある私小説作家による極めて独断的な私小説」と考えている。

つまりこれは執筆メモであって、半分物語である。

物語を書いた時点でわたしはその問題を、消化している。

 

|

« イヤシノウタ | トップページ | 執筆メモ「目」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« イヤシノウタ | トップページ | 執筆メモ「目」 »