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2015年9月26日 (土)

柳湯

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5月のうたタネ以降、
6月はトークショーからの芝居の手伝い、
7月は12日にそれが終わったと思ったら、新連載の執筆、
8月は風邪に始まり、これまた新連載の執筆、からの親友の一大事、
9月は脚本を書いた映画の試写会に始まり前半はいろいろバタバタしていて、

この1週間がひさしぶりのオフというか……
船パリのことをやる1週間、すなわちそれは自分にとって、麻布十番での日々、
恵比寿橋での日々、そしていつのまにか3年目を迎える神楽坂での日々、それら公私ともに振り返り見つめなおす日々でもあって、

加えてわたしにとって今年の5月は大きな転機でもあり、
それを踏まえて変わった、新しい自分を、もういちどちゃんと鏡に映すというか、
そういう日々でもあって、
なんとなく5月からの新しい、ある意味「昇り」といえた流れが、落ちついたからなのか、落ちついたように見えて後退している気がしているのかそれはわからないけれど、
よくわからない取り越し苦労というか
(だいたいわたしの場合それは取り越し苦労ではなくなにかしら正しいのであって、よけいそのループにはまってしまう…)という、

よくわからない、漠然とした不安もあったりして、
(不思議とわたしはこういう感覚を創作、つまり執筆に対して抱くことはない。つまり大変恵まれたことにわたしと小説の関係性というのは、なぜかわからないがいつも極めて安定している。とても、とてもありがたいことに)

全体的にもったりとはしていたのだが、その「もったり」に対して自分の心や細胞を費やすことができた贅沢な1週間でもあり(もちろん船パリは前進している)、
わたしはこのオフを、こういう過ごし方をして、よかったと思っている。

実際「一気に書いてる時間」というよりは、「書く前の時間」の過ごし方が大切なのだ。

そして柳湯。

昨夜、久しぶりに柳湯に行った。
わたしにとって柳湯は特別な場所。柳湯は不思議なところだ。

ここにあってここではない、いまであっていまではない気がする場所。

この3年間、ときおりはときおり、ときおりはまた集中的に、柳湯に来た。

おばあちゃんが生きているときも、
おばあちゃんがもうすぐいなくのなるのだと知った頃も、
とうとうその最悪の未来が「今」になってしまった頃も。

「艶蜜花サーカス」の連載に煮詰まったときも、
長谷川時雨さんを追いかけ昭和初期に思いを馳せて牛込を散策したころも。

重低音の中、とくに好きではない、かといってもちろん嫌いであるはずはない男の子たちと、しばしば並行して寝ていたころも、
そういう気分ではなくなってパッタリ閉鎖的に過ごしていたころも、

誰かの彼女という、わたしにとってとても特別な状態を、それなりには順調にこなしてはいたが、心が大きく高鳴ることはなく、自分が淡々と恋愛をとりおこなえる女になったことをさみしく思っていた頃も、
(つまり、誰かの彼女になっても幸せになれるわけではないのだ!わかってはいたことだけど)

わたしは、柳湯に来てここに浸かった。

柳湯はいつも同じで、その同じさに救われる。

ここに来る女の人たちの背中はみな美しい。

それは女優みたいにきれい、ということではなくて、
生きることを放棄している人がひとりもいないような感じの美しさ。

ここに来るひとたちの背中ランキングでいうと、
自分は、ひさかたぶりにこの言葉を使うが「あまちゃん」かなと思う。

伯爵令嬢のように女性として行き届いた感じの背中ではない雑さがあるし、
かといってたいして生活や人生に困窮してなそうな気配もあって、
誰かにちゃんと寄り添っているような貞淑さは見受けられないが、
かといって男(単に男、特別でもなんでもないような)の気配がないわけでもなくて、

書いててもおもうが「あまちゃん」で「半端」な背中ではなかろうか(笑

わたしは背中に自分をたとえているのではない。
女の人の背中は、これくらい語る。
逆に自分の背中こそ、予想であるが、
柳湯に来ている女の人の背中はけして無口ではないから、
わたしはそれをずっと見ている。

昨夜、柳湯はわたしの好きな、なんか茶色く濁っている日だった。

素直になりすぎないようにしよう。
いつも心を100で差し出されたら、受けとる側がしんどいこともあるかもしれない。
ときに手ぶらじゃなかったり、たまたま重たいものを抱えていたりする状況の場合。

自分が置かれている状況や自分の状態というものは、
ほんとうはいちばん自分がわかっていて、
自分がわかっていることがきっとほんとうのことなのだと思う。

と、いいながらも。

The things that I love is the things that I love.

どうもわたしは、わたしと話合わなければならないようです。

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この課題はきっと「過去」からやってきているように思う。
それが「今」の「ちょっとした状況」や環境によって増幅する。

打ちのめされた「過去」を、わたしがわたしで乗り越えなくては。
それがわたしの今の思考回路をつくっているのだと思うから。

その思考回路は、わたしの「今」に絶対影響する。

でもこんな風に感情が動くことは幸せなことだ。
長い間、とても長い間、わたしのこういう感情は石像のように固まっていたので。

揺れることもいいな。
かつて石像のまま柳湯につかっていたわたしは、そう思う。










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