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2015年9月30日 (水)

ヘビを見にゆく

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とある事情で実家に帰ってきている。
けれど執筆(もしくはその為の準備)があるので、
1日家にいる。なので夕方は1時間ほど、Runと散歩の間のような感じで、
外にでる。
そのコースの中におばあちゃんの墓参りを入れる。
昨日はお墓の御神酒とかを変えて、
今日は新しい花を持っていった。
(先日、妹あやめっくすが大変きれいにお掃除してくれたのでお墓はとてもきれいだった)

夜は母親と「ほたるの湯」に行く。
(いい気分になって寝てしまうことをくりかえしたので今日は気をひきしめずっと仕事)

サウナでからだが熱くなると、裸のまま出られるちょっとした庭があって、
そこにある茣蓙(ござ)式のビーチソファーのようなものにねっころがって、
母とお月見をした。

「ねえあきちゃん、不思議よなあ。こうやって宙をみていると時間っていうものがどんどんわからなくなっていくよね」

母はこういう。

「だって今わたしらが見てるかもしれない星はもしかしたらもう実体がない星で、なのに光だけがこうして届いているって」

だとしたら。

「逆も同じでさ、たとえばもうここに、おばあちゃんはいないけど、宇宙的にはおばあちゃんはいるように見えたるということにもならへんか」

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わたしたち、とくにお母さんは、いつもおばあちゃんと一緒に生きている。
こんなに仲の良い嫁と姑はいないと思うくらい。

とくに「ほたるの湯」には、そこかしこにおばあちゃんが居て、わたしたち孫達もそれをよく知っている、というか感じている。この感じというのは「死の悲しみを乗り越えられず」いつまでもそれを言ってる、というのとは違って、

それこそ「メメント・モリ」=生き死ぬるもの双方に光を。
当てている状態なのだ。

こっちにおばあちゃんがいないのはわかっている。でもいないけど居るものとして扱っているので、例えばお墓参りとかしても、普通にしゃべりかけてしまう。

「あんな、いつも同じ花も冴えへんし、コスモスとかにしてみたんやけどどうやろ」

コスモスが綺麗だったので写真を撮っていたらおばあちゃんの声が聞こえる気がする。

「あんたそんなん綺麗にとってもしょうがないんやから、それより早く水代えて」

時というものはなんなのだろう。
とても不思議。

時というのは、「今」という瞬間の中にも、金太郎飴の断面図のように、いろんな時が散らばっている。

「船パリ」のことをいましていて、とある事情で2014年は全くそれにふれなかったので、時代の勘をとりもどすために数日を要した。そういうあれで、親友のアルバム「Sing Me A Song」を聴きながら、生まれた街を走る。
その景色の中にも時が散らばっている。

耳の奥に親友の声とよく知っているジャズメンたちの演奏が飛び込んでくると、
あの贅沢だった2008年の「花よりタンゴ」の本番前の朝の気配に時は染められる。

ふと左を見ると、通っていた小学校が。もう駐車場になってしまったここは前は畑で、
みんなヘチマを育てていた。
しばらく走って右を見ると、昔暮らしていた、駅前コーポラスが見える。あの二階の端。
外からベランダを透視するようにぐっと眺めると、部屋の中では、5歳のわたしが、
懸命に松谷みよ子さんの真似をして、お絵かき帳に、物語を書いている。

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家の冷蔵庫には、家族の写真がいっぱい。
そのうち黒猫の武蔵も白猫のバニラも、すずめのぴーちゃんも、おばちゃんもおじいちゃんも、つまり半分くらいの登場人物が、ここにはいなくなってしまっている。
けれども「いる」ので、ここにそのまま貼られていることはうちら家族的にはなにも悲しくない。戸棚の上にはわたしが賞を獲ったときのパーティの家族写真がある。
そのころわたしは痩せてて、わりときれい(笑

そしてこの写真を、うちに泊まりに来たさおりが見つけて、
「なんですかこれ!!めちゃ綺麗な人だと思ったら杉田さんじゃないですか!
マジでちょっと頑張ってください。(怠けすぎて劣化しすぎてますよ、の意)」

と、言った日すら、昨日のことのように思うがもう二年ほどが経とうとしている。
(そしてそれから2年、わたしはマジでちょっとも、容姿に関しては頑張っていない)

時って、いったいなんなんだろう。

そうだ、ヘビを見にいかなくちゃ。

なぜか強くそう思った。
ヘビを見たことはなんどもあるけど、どうしても忘れられない鮮烈な出会いをした場所があって。わたしはそこでとぐろを巻いているヘビを初めて見た。
チロッと舌が出ていてとても怖かった。
あきらかに「ただものではない」ヘビだった。

なぜか急に、しかも猛烈にそのヘビを見たくなって、わたしは小学校の前の細い道を川沿いの裏道に向かって抜けた。
(滋賀県、とくに守山は水路が張り巡らされていてどこもかしこも小さな川が道のわきにある。これはなんとエジプトのピラミッドとその周りの水路と同じ手法であるという都市伝説があることを最近知った!=邪馬台国が滋賀県にあるバージョンの仮説)

やっぱりそこもアスファルトに変わっていて、ヘビがいたところには今なにかを建てている途中のようだった。

わたしはヘビを見たときの位置に移動して、もう一度ヘビがいたところをじっと眺めた。

ここに、いたのだ。
たしかに、とぐろを巻いて。
わたしはヘビと目を合わせないように、左側の小道に折れた。
傘をさしていた、ような気がする。雨だったのかどうかは覚えていない。

じっと眺めていると、その時の断面図がわたしの背中にせまってきて、
いまにもその「時」にワープしそう。

時とはほんとうに、なんなのだろう。

そこにはアスファルトがあって、
もちろんヘビはいなかったのだけど、

別な言い方をすると、やっぱりそこに、ヘビはいた。

堂々たる様で、とぐろを巻いて。

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