2015年4月
2015年4月28日 (火)
2015年4月27日 (月)
4月を振り返る。その③
4月の最初の週の日曜日に、
3番目の妹、みいきの、詩の個展に行ってきました!
誰と!?
なんとなんと、
中原中也賞を受賞された詩人さん!(とか言ってみたり 笑)
そう、悠光ちゃんです。笑
詩の個展一緒に行くなら、詩が好きなひとがいいだろうと思い、
あら、そういえば詩人の友達がいたわ♪と、ゆみちゃんを誘ったのですが、
これはみいきには、大変うれしいギフトになったようです、よかったよかった。
さて、この個展(厳密にはグループ展)ですが、
大変すばらしかった。
ピックアップされた詩もとてもよくって、そして一緒にやっていた漫画家のひかりちゃんのセンス、写真家のゆきちゃんのセンス、すべての融合がいさましくも美しかった。
そしてとても洒落ていた。
文字の配置、読ませかたもすごくいい気がして。
右から左に、普段読み慣れてない配置で文字を読むとき、ひとは一言ずつ確認して読み進める。それが狙いなのではないかと思うほど、
それらの配置は、絶妙にすばらしかった。
ゆみちゃんのご来訪に感動するみいき。
悠光ちゃんは、とてもフラットに、真摯に、いつも詩と向かいあっている人で、
わたしはやっぱり彼女と来てよかったと思った。
みいきは本職はライターである。詩人を生業にはしていない。
けれどけして、それらを生業にしていない人間が生業にしている人間に劣るかというとそうではない。
歌手ではない人の歌、
役者ではない人の演技、
ピアニストではない人の弾くピアノ、
詩人ではない人の奏でる詩、
小説家ではないひとが書いた本、
それらは実はとても自由で、とても魅力的で惹かれるものだ。
それらには媚がひとつもないし、「好き」だけが溢れていて、とてもこう、きらきらしている。
そうやって境を超えてくる芸術に、それら生業にしているものたちは、影響を受け、
感銘を受け、それがまた生業にしてるものたちを揺らし、新しい芽を出させる。
悠光ちゃんと。
この日は実は昼間一緒に義太夫に行って、
夜はふたりで、いろんなことを語り明かしました☆
4月を振り返る。その①
4月はなんだかんだしている間にあっという間に過ぎてゆきそうな気配。
facebookでの個人的エッセイに関しては、これでなかなかというか、もうvo.9、
いつのまにか9コもエッセイを書き終えました。
しかしブログはというと、なかなか更新するのが上手ではない模様(笑
しかし基本的にはtwitterよりfacebookより、あまたのSNSよりも一番最初に、このブログを始めたわけであるから、
これはちゃんと続けていきたい。
というわけで。
まず、4月はお誕生日でしたので、みんなに頂いたものの写真など。
ありがとうの気持ちをこめて。
4月1日は妹めっくすがお休みで、オーガニックなランチに連れてってくれました♪
本を2冊もらったよ。
1冊はシークレットブックで、冒険好きなあなたに……みたいな出だしで始まる本を開けたら、なんとなんと、ミヒャエル・エンデ!!!
しかも「モモ」でもなく「はてしない物語」でもなく、まだ読んでいなかった
「ジムボタンの機関車大旅行」!!!
なんか運命感じましたね(笑
その後、ジニアス時代の後輩とお茶☆
素敵な花束とアナスイの、これまた素敵なルージュを頂きました。
その後、一度帰宅し、せっかくなので着物着ました!
UAEの為に覚えたこの技術、忘れないようにしたいもんね!!
なんと赤坂のWAKIYAさん!!
おいしかった!!
あとMAYAにもらったかわいいヘアバンドとか!(写真撮るの忘れてた模様デス!)
感謝をこめて、載せました☆
2015年4月20日 (月)
イミテーションゲーム
実は3回観に行った(笑 しかも映画館に!
1回目は壺井さんとで、これもお誕生日にと、チケットを買ってもらった。
ふつうに素晴らしい映画でしたが、
なんていうか、わたしには、ときどき、
「ふつう」これくらい評価されるであろう映画だという感覚とは、まったく別のところで、
途方もなく惹かれてしまう映画がある。
3回も?なぜ?
そう言われたらなぜかはよくわからない。
2回目はその正体を知りたくて行った。
なぜ?こんなにも惹かれるのかを知りたくて。
3回目は母に見せたくて。
わたしは2回目に感じたことを、もういちど確認しながら見た。
なんどみてもうれしい、感動するシーンがある。
「気づき」のシーン。
ほんのささいなことが脳みその導火線に触れて、花火が弾ける。
そのとき、こころも、からだも、それが起こるすこし前からそれに気づいている。
ああ!すごいことがおこりそう!!
そのいのちの躍動。
わたしが途方もなく、惹かれるのは、
人目につかないところで、
孤独な作業をしながら、自分の信じる真理を追究しつづけた人がいて、
そのひとは何十年も経って、こんな風に称えられることも知らずに、
知らず知らず追い詰められて死んでいった。
そのことさえも知られずに。
けれど今、誰もの日常に不可欠といっていい、パソコンや、
手放せないiPhoneなど。
このルーツを追いかけて行ったならば、彼の生きた日々にたどりつく。
この手にいつも持っているiPhoneの中に、
その彼が追いかけ続けた日々があって、
追いかけ続けた答えがある。
そんなことも知らずに、人はそれを使っていたり、するんだなあと。
そして、そんなことを知ってしまったが最後、
もう、あなたを思わずには、日々を過ごせなくなってしまったということ。
だって、これはあなたが切り拓いてくれた道だから。
天才や、スターや、芸能人や著名人やオリンピック選手とか。
身の回りににはいない、
「ふつうではない」
スゴイ人を人は敬い、憧れる。
なのに、身の回りにいる「ふつうではない人」を、
実は人は嫌う。
その「ふつうではない」と、この「ふつうではない」を、全然違う、雲泥のように考える。
でもほんとうは同じだから、
「ふつうではない」人間は、「ふつう」の中で苦しむ。
映画の中であの警官だけが架空の人物だという。
パンフレットにはこう書いてあった。
「ノック刑事は、悪人ではない普通の人間がいかにチューリングにひどい仕打ちができるかを観客に見せる」
ほんとうにそうだと思う。
ふつうではない人たちに支えられて科学や芸術や、世界はすべてここまで歩いてこられたのに、そのひとたちの人生は、日常という単位の中では理解されずないがしろにされることも多い。
けれどそれでもそんなにも、自身の中に「成し遂げなければならないこと」があった、その神秘にも心打たれる。
ゴッホはなぜあんなになってまで絵を描き続けたのだろう。
ルソーは?
チューリングにとってマシンはなんだったのだろう。
あるのだ。
自分の内側を叩く運命の音が。
自分を内側から突き動かす宿命のひかりが。
彼等はそれにまっこうから取り組んできた。
なんて美しいのかしら。
同時に。
自分の周りにいる、「ふつうではない」人たちにも、
ちがう角度から接してみることができるのではないか?
「こいつ日本語つうじない」
たまに人を馬鹿にしていうことば。
でもそうだろうか?わたしの日本語は、その誰かにとっても同じ日本語か。
そしてそのとき、自分の日本語が正しいと、いったい誰が決めたのだろう。
にんじんとグリンピースがけして混ざってはいけないと強くこだわることは、
ほんとうにおおげさか。
人の姿形は似ている。でも、その中はどうだろう。
わたしたちは、常に相手も「当然こう考える」というふうに決めつけてはしないだろうか。
ただ、なんとなく姿形が似ているというだけで。
関わるすべての人に対して、もっと目をこらそう。
もっと耳をすまして。
そのひとにとっての真理はなんなのか、たとえ解らなくとも、すこしでも寄り添えるように。
2015年4月17日 (金)
2015年4月16日 (木)
2015年4月15日 (水)
2015年4月10日 (金)
2015年4月 6日 (月)
《月曜モカ子》vo.6 ルーツ/松谷みよ子
《月曜モカ子の“私的モチーフ”》vo.6 ルーツ/松谷みよ子
※ルーツとは、ことの起源、という意味です。
わたしのパブリックな処女作は「蝶番」であるが、わたしがいちばん最初に書いた物語は「あきちゃんとアヤメちゃん」という、シリーズものの短篇集だ。
書き始めたのは幼稚園のときで、おそらく小学二年生くらいまで書き続けていた。単に自分と妹の日々を、松谷みよ子さんの「小さいモモちゃん」シリーズにな
ぞらえて書き連ねてゆくだけの、もはやタイトルにすら独創性のないーーシリーズ4作目「モモちゃんとアカネちゃん」を自分たち姉妹の名前に変えただけとい
うーー模倣作品である。
しかし幼稚園児が小学生になるまで、コツコツと、落書き帳数冊にわたるシリーズ短篇を書いていたという、その持続性の部分は評価したい……(続きはfbページにて!)
《月曜モカ子の“私的モチーフ”》vo.6 ルーツ/松谷みよ子※ルーツとは、ことの起源、という意味です。わたしのパブリックな処女作は「蝶番」であるが、わたしがいちばん最初に書いた物語は「あきちゃんとアヤメちゃん」という、シリーズものの短...
Posted by 中島桃果子(小説家) on 2015年4月5日
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