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2013年2月 9日 (土)

おじいちゃんの大正ロマン

これは、正確には「不思議な木曜日」以降、連鎖して起こっている面白いできごとの話です。1月の大雪の前日から始まった『へんてこなこと』は先週の木曜、わたしが松本からやってきたとても不思議な人との体験でもって山場をむかえ、そこからちょこちょこその余韻みたいなものが続いているのだけど、今日はなんだかお告げのようなできごとがありました。
「起きたら寝室の窓を開けて、今日もいい日にするとお日様に向かって言う」
ということを今日初めて実行した次の瞬間、母から電話がかかってきた。

ママが言うには、いまおじいちゃんが2時間かけて懇々とママに話した大正ロマンの話をちょっときいてくれという内容で、船パリが昭和3年で止まっているわたしにとっては大変興味深いことだったのでわたしはフンフンと聞いた。

おじいちゃんは最近どうも、生まれたあたりの記憶を断片的に思い出すのだそうだ。そういうことをこないだおばあちゃんも言っていたから、ひとは晩年になって、急に自分がとても小さかった頃のことを思い出すのだろう。うまくいえないけどベンジャミンバトンのような心と体のリンクが、生まれた頃=晩年って感じで起きるのかもしれない。

いままでおじいちゃんは、最初の記憶は「丹後の地震」だと思っていたそうだ。ところがそれより昔の記憶があることを最近思いだした。
おじいちゃんはお馬さんに乗っていて、なぜだかとてもお母さんに会いたい。
でもそうすると「ねえや」が「いまお母さんは赤ちゃんを産んでるから会えへんのやで」というようなことを言う。小さなおじいちゃんはますますさみしい。
そのとき屋敷の前にあったカフェ(おそらく純喫茶)から、なんとももの悲しい歌が流れてきたという記憶だった。
※うちのおじいちゃんは8人兄弟の5番目で、そのころまでは大変裕福でありました、しかしこの数年後株で大失敗をして、没落する。なので我が一族は株は一切やらない。残ったのは300坪のお屋敷のみ。だからおじいちゃん家は築100年以上(!)

そしておじいちゃんは、その生まれた子をずっとすぐ下の妹だと思っていたけど、
実はその間にひとり子がいて、生まれたのだけどすぐ死んだのか、はたまた死産だったのかはわからないが、とにかくそういう兄弟がいたことをおじいちゃんは今記憶として思いだしたのだそうだ。家族で弔いをしているなか、なにもわからない2歳のおじいちゃんは、はしゃいで駆け回り、それをみて家族はいっそう泣いた。
「大正15年の暮れの話やった。15年の暮れに生まれて昭和の初めに、死んでいった子がいたんやわあ」とおじいちゃんは先ほど電話口で泣いた。

船パリの大正15年暮れ。なにが起きるかはまだ言えないけれど、いろんなことがリンクしてわたしは驚いた。
母ちゃんが恋しくてたまらなかったその日に、カフェから流れてきた歌は「紅屋の娘」というらしい。
you tubeで調べるとなんと歌っていたのは「佐藤千夜子」だった。
佐藤千夜子……
船パリを書く上の時代考証で、切っても切り離せない歌手が、佐藤千夜子そのひとである。心臓の手術をした次の夜、わたしは病室のベッドで彼女の伝記を読んだ。

なんていうか「雪を見てみたい」と思いながら雪を知らずに生きてきて、ある日起きたら外が真っ白だったような、
「お肉ってどんな味だろう」と思っていた矢先に目の前にその血肉の塊をどんと置かれたような。
わたしが空気のようなものに思いを馳せ、なんとかその空想や憧憬の塊を形にとらえたいと、綿菓子をつくるように紡いできた船パリが、
急に自分のおじいちゃんの最初の記憶としてドカリと目の前に現れた。
空ばかりみていたのに、ものすごく太い根のついた切り株を置かれた。

おじいちゃんに「紅屋の娘」を、聞かせてやろうと電話をして、電話口からその曲を流したら、おじいちゃんはひとこと
「大正ロマンやなぁ」と言って、泣いた。

船パリの中に「紅屋の娘」をどうしても入れなければならない。わたしはそう思った。シーンはもうある。昭和15年の暮れから昭和元年の年越しのシーンがもう、船パリにはある。そこにこの曲を入れなければならない。
わたしは強くそう思った。
昭和3年で留まっていた船パリがラストに向けてようやくもういちど出港するときがたぶん、きた。
その汽笛を、おじいちゃんが鳴らした。大正13年に生まれて、昭和のはじめに兄弟を亡くした、わたしのおじいちゃんが。その血潮の先にいるわたしが、この2013年に大正を書く。

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