« ウィルヴィルの三姉妹 | トップページ | 小さな頃 第二弾 »

2012年12月19日 (水)

絨毯の切れ端

『棺のなかに来春柿落としを迎える新しい歌舞伎座の舞台のその切れ端が入れられた。彼の亡骸の足が、まだ誰も踏んだことのない真新しい舞台を踏んでいる』

これは野田秀樹さんの勘三郎さん追悼文書き出し。

野田さんらしからぬ悲痛でエモーショナルな追悼文に胸が痛かった。
何十年も一緒に芝居を追いかけてきた親友が逝くってどんなだろう。

わたしはちほが死んでしまうことを想像すらできない。
想像する勇気すら持てない。
そんなことを思いながら、半年ぶりにちほのLIVEに行った。
そしたら池野先生(昭和の偉大なジャズジャイアンツ、歴史的なピアニスト)が、
体調を崩されて、今日はお休みとのこと。
こんなときだからなんだかすごく、そういうことに敏感になってしまったりしていて。
そしたらちほが同じような顔をして出迎え、
「野田さんの追悼文読んだ?持って来たんだけど」
とわたしが言うと、
「読んだ読んだ、野田さんも辛いだろうね、あんな亡くなってすぐ追悼文書くなんてさあ。ちほ、これがむーみん(=わたし)だったら無理だよ」
と言った。

なんかその言葉で通じ合えたというか、もうそれ以上会話が必要ないくらいな感じであったしちほも出番だったので、
すぐにその話は終わりになったのだけど、
(この場をお借りして稲澤さん、教えてくださりありがとうございます、おかげで二人とも追悼文拝読できました)

その後みたちほのtweetがあまりにわたしが考えていたこととリンクしていたので、
ここまでか!と驚いた。

              ***

『野田さんと勘三郎さんが新橋で呑み、深夜に歌舞伎座に入り込んで警備員さんに灯りつけてもらって花道を駆け回ったって話、私も学生時代もかこと同じ事をしたように、そんなことばっかしてたように、懐かしい気持ちになった。忍び込んだ先はもちろん歌舞伎座の花道とは大違いだけどさ』


『野田さんのインタビュー、「竹刀を5回振ればいいところを100回ぐらい振るでしょう。お客さんに受けると。」っていうので一気に勘三郎さんがよみがえった(笑)そうそう』

ー熊田千穗twitterよりー

              ***

なんか多分、野田さんの追悼文を読んで、辛いだろうなって思ったのって、
わたしとちほに、同じような思い出があるからなんだと思う。
ちほが言うように歌舞伎座の花道とは段違いなんだけど、どこかで芝居ができないか、
ここにも、あそこにも芝居はあるかと、18歳の頃から、わたしと千穗は、
いくつもの路地を一緒に曲がって、たくさんの芝居人の背中を追いかけ、
多くの戯曲を読んだ。
この街で十五年暮らして、千穗はジャズシンガーに、わたしは作家になって、
芝居を本業としてるわけではないし、多くの役者たちと出会い時間を過ごしてきた。
それでも今でも、自分ほど芝居を愛している人間をもうひとり見つけることはできないんじゃないかと思うし、自分が唯一自分と同じ熱量で芝居を愛していると思える人間は、
やはりちほだったりしていて。

きっともちろんほんとはそんなの奢りなんだけど、初恋を超えられないように、
わたしとちほと芝居の凝縮を、わたしたちはきっと、わたしたちでしか塗り替えられないのだ。

久しぶりに聴いたちほの歌は、素晴らしかった。
一緒に言ったウッシーさんが、
「ここに出る歌手たちの中では彼女はもう群を抜いている。トップクラスだね」
と言っていた。ここにはもう、あの中講堂で、
「聞こえないからそんなか細い声で歌わないで!」
とダメ出しされていた千穗はいない。
初めの頃は「もっとこうしたら」とか、ライヴパフォーマンスにも口だししていたわたしだけど、もう今はただお客として聞きにいくだけだ。だって彼女はもうプロなのだから。

わたしは昔から、彼女が「この歌はこういう歌です」と、歌詞の内容を物語にして聞かせてくれるMCが大好きだった。そのMCのときにウッシーさんが、今度は
「彼女が芝居畑でやってきたことが、ようやく活きてきたかもしれないね」と言った。
ほんとうにそうだと思う。

わたしたちはいつも芝居をしているから。
音楽の中で。原稿用紙の中で。

来年出版される予定の「船パリ」の中でも、わたしは唯一ちほにだけは、
完全に宛て書きをしている。
物語の中にわたしたちの芝居が生きている。

勘三郎さんが亡くなる一週間前、なんの因果か図書館でわたしは野田さんのエッセイをたまたま読んだ。
その中に勘三郎さんと野田さんの対談があった。
勘三郎さんが野田さんに必死に
「いつか歌舞伎の演出をしてくれ」と頼んでいた。
それまでに俺も歌舞伎を変えて、おまえが入ってこられるように頑張るからと、勘三郎さんは言っていた。
「えっ?」と思って日付を見ると1991年とあった。

そのいつかがかつてになった2012年。野田版歌舞伎はたしか2000年に始まる。
こうして偉大な人たちも、自分の夢を叶えるために、10年もの時間をかけて、努力を重ね、諦めずに実現していったのだ。
「70歳くらいになったらさ、若い女の子ひとり入れて”ちょっと表へでろい”なんて芝居を作ろうよ」
2010年に『表に出ろぃ』は東京芸術劇場の小ホールで行われた。ちほとは日程があわずわたしは尊哉と観に行った。その”若い女の子”には、わたしとちほの同期演出家の麻衣子の劇団の女優さんのロランスちゃんが五百人の中から選ばれた。

『いい大人が、大演出家と大役者が、そうやって子供みたいにはしゃいで騒いで、満員の観客が大劇場を埋めつくす芝居の核が産まれるのが、しんじつ』
ここでまた千穗のtweetとわたしの気持ちがリンクする。

勘三郎さんが亡くなる一週間前、麻衣子の舞台を観に行ったら、串田さんが観に来ていて、まさか串田さんが来てるとは思っていなくてその存在に気がつかなかったわたしたちに、串田さんが「おう!」と声をかけて寄ってきてくれた。
15年串田さんを追いかけてきて初めてのことだった。
勘三郎さん最後の大舞台「法界坊」の千秋楽で串田さんを見つけてわたしたちは大声をあげて手を振って、麻衣子の舞台で初めて串田さんがわたしたちを見つけてくれて、
その一週間後に勘三郎さんは亡くなった。

いつまでも背中を追いかけているんじゃないぞ、と神様が言ってるような気がする。
いつまでも誰かを頼りにしていたらダメなんだ。
馬鹿みたいでも、笑われても、自分たちが演劇を変えるんだと、
自分たちが物語をつくるんだと、いきまいて、前に進まないと。

そのためのスタート地点、に立つために、今わたしは必死で船Parisを書いている。
船Parisがもたらしてくれるのは成功とか、賞賛とか、実績とかじゃない。
あの物語がわたしにくれるのはきっと、
「長い船旅の始まり」
その船出なんだと、そう思うのだ。

『彼は”芝居”というものはもっともっと人々の心にじかに届くように、目の前の大切な人に話しかけるように、その人びとの言葉も聞きながら演じるものなんだということを実践しようとしていた。その日の芝居の本当の姿はそこに立ち会った観客の心の中にしか残らないことを体中で知っていた』串田さんの言葉。

上海バンスキングの再演で繋がることができた自由劇場の年季の入ったファンである稲澤さんや三澤さん。おふたりが貴重な資料をお貸しくださり情報や昔の映像なんかも見せてくださり、ちほのライヴを観に来てくださり、わたしの執筆のために色んな知識を貸してくださる。そして今回の勘三郎さんのことも一緒に悼んでくれた。

勘三郎さんや野田さんや串田さん達が広げて、素晴らしい役者、スタッフ、文化人が乗り踊り飛び跳ねた絨毯の上にわたしたちはいないけど、
でもわたしたちはその絨毯の切れ端を握りしめている。
これを宝物に、わたしたちはわたしたちの絨毯を敷くのだ、これから。
10年でも20年でも時間をかけて。

375469_391366980950150_442846107_n

543984_391366960950152_504723252_n

|

« ウィルヴィルの三姉妹 | トップページ | 小さな頃 第二弾 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ウィルヴィルの三姉妹 | トップページ | 小さな頃 第二弾 »