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2012年8月28日 (火)

大正100年の夏 其の三

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「愛して愛されざるうらみ。愛されて愛しえぬ痛み」

これは「女人芸術」の中にあった一行ですが、
まことに恋愛というもののすべてを言い得ているなぁと思って、
あまりに関心し、ノートに書き写した次第です。

このどちらにもあてはまらない恋だけを紡いでここまでこれたという幸せ者、または鈍感な人はきっとこの世にいないでしょう。
いまはこの「うらみ痛み」とは無縁の恋をしていたとしても、この「うらみ痛み」の経験がない人はいないとわたしは思います。

わたしがおもしろいなあと思ったのは、
「愛してあいされざるうらみ」ということはあちこちで取り扱われているトピックだけど、
この「女人芸術」では同等の苦しさとして、
「愛されて愛しえぬ痛み」を取り扱っていること。

「愛される」ことは幸せなことで、愛されている人は幸せだと決めつけているこの世の風潮ってあるけど、やはり愛されて愛しえぬ痛み、は同等に存在して、
恋人同士の片側にうらみ、もう片側にいたみ、がある中、一緒に暮らしているだとか、
日々をともにしているケースって結構あるんじゃないかなって思う。

そういう相性の恋人同士もあれば、愛しあっていても、長い月日のなかで、天秤がどちらかに傾いて、痛み恨みを内包して耐えて過ごす時期ってきっとでてくると思うし、
多くの人は、愛して愛されざるうらみを抱きながら、それでも愛しているので一緒にいたり、愛されて愛しえぬ痛みを抱きながら、それでも愛してくれるので一緒にいたり、しているよね。

ここに3つめ一文を加えるなら、わたしは、
「その双方からの独立がもたらす孤独」を書き記したいと思う。

人肌とは温かいもので、痛みやうらみがあっても、寄り添っていればさみしさを凌ぐことができる。生活難をのりこえたりすることもできる。

大正時代はたくさんの女たちも「思想をもって」恋をしていましたが、
ふりかえってみて、わたしの恋は、
「愛して愛されざるうらみと愛されて愛しえぬ痛みの双方」から、逃れ、独立し、自由になって本当の恋愛を勝ち取るための戦いの十数年だったように思います。結論から言うと負け続けているが(笑 未だ戦いは終わらず。

愛されて愛しえぬ痛みに鈍感だった頃は、そうやって相手に”愛されない”渇きを与えながら人といても平気だった。渇きを与えれば相手は自分に執着する。
そういう駆け引きをうまくやればモテる。そして愛してない相手に対しての駆け引きなんて足し算くらい簡単だったりする。
でもその痛みに鋭敏になってからはそれはできなくなった。
それは自分の痛みというより、愛して愛されざるうらみの感情を知って、そういう苦しさをやみくもに他人に与えることはしたくないと思った。
だからそういう芽は早めに摘み取る。
なのでわたしはこの手法でモテている人を、モテている人にカウントしない(笑
そうやって相手の気を引くのってなんか愛にたいする裏技って感じがして、わたしは好きではないのよね〜。と、話が脱線しましたがここで書かれている「痛み」は、
愛してくれているのにそれに応えることができない苦しさを言っていて、その感情を逆手にとるというニュアンスはないのでありました〜。

愛して愛されざるうらみにはわたし、もとから鋭敏で、人をうらみたくないし、かつ嫉妬の苦しさに耐えられる人間ではないので、
ちょっとした温度差を感じると自分からすぐ別れる。幼稚だよねぇわたし、と思う。
相手にヤキモチを焼かされてナニクソって奮起するタイプじゃない。
傷つきたくないからすたこら逃げる(笑
だから、あーあそこで白黒はっきりさせなかったら1年とか2年とかって恋人関係って続いたんだろーなーとか、過去の恋愛に対して冷静に思ってみたりする。だってあんまり男の人って潔く別れを切り出したりしないじゃない。
別れようと思って次の日にザクッと言うのはやっぱ女だよね。

きっとわたしは恋に対して、病的なほどの完璧主義なのだ、しかも白馬の王子待ってる的な、ないものを探している的な。
できればぴったり重なり合っていたい。同じときに同じ夢をみていたい。
とかを本気で思ってみたりする。恋というパッケージの中に気持ち以外の要素を入れたくない。円グラフ(恋)があったとしたら100パーセント気持ち(笑

恋というものに生活が入り込んできて、別れたいけどお金がないから一緒に暮らしている、みたいな感じや、愛されていないことに気づいているのに、執着で傍にいる、みたいな感じはきっとわたしにとって「不純」なことで、結局その双方からの精神的独立、またはその双方に蝕まれない、純度の高い恋愛を強く夢見た(ている)が為に、

「双方からの自由がもたらす孤独」とずっと一緒に生きている。

でもここまでそれを追い求めてきたのだから、見つかるまで、
この孤独と生きていきたいし、痛みやうらみを内包しながら誰かと寄り添うという選択を、いまさらしたくないなって思う。

でもほんとは人生は「生活」が大半で、こういう極端な考えは成熟した大人の考えではないことも解っている。

わたしのこれは、痛みうらみを内包して恋人をもったり恋をしている人への批判ではないし、この感情は片恋であっても同等に存在するもので、じぶんも完全にこれらの感情から自由になれたわけではありません。
どうせ自由になれないなら観念して誰かと寄り添ってみればいいのにね(笑 
なんか見つからないものを探し続けているモラトリアムな幼児性がじぶんの中にあるのかなって思ったりします。

このような課題「恋は褪せるモノか」「永遠の愛は存在するか」
ー貞操と姦通(←いまでいう不倫とか浮気)に関して、
文壇女子座談会なるものが誌上で開催されており、
なるほど、100年前も今も、男と女の課題や恋がもたらす痛みや葛藤は、おどろくほどに変わりばえせず、これこそ普遍的というものなのかなって思ったお茶の水〜。

以上丸の内マゾヒスティック?でした。

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