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2011年12月30日 (金)

「入り口の中は出口の外」

これは執筆メモです。
この日記には作家のわたししかいません。
感情や感覚の羅列ですが、
わたし自身が倒錯してるわけではないのです。

ー女たちはそれぞれみんな、じぶんだけがその男の心の深遠にいちばん近いところにいると思っている。女はみんな、じぶんだけがその男をいつか変えられると強く信じているー 

『男が周りの女を邪険にあつかい自分が大切にされている間は、じぶんだけが特別に扱われていると思ってうっとりする。
次に軽くこづかれるようになると、心を許してもらえたと思ってうっとりする。
思ったより強くどつかれたとき、最初戸惑うが、じぶんにだけ甘えてくれたのだと思ってうっとりする。
ひどく殴られるようになってからはもう、彼がこんな一面を見せるのは自分しかいないと思い覚悟を決め、果てにはこのからだの痣が消えないうちにまた強く齧られたいと願うようになる。 入り口に深く足を踏み入れた瞬間その足はもう出口の外に出ていて、中には実体がない』

光が強ければ影も濃い。深く愛せばその裏側も。
それらをぜんぶのみこんで、出たり入ったりをくりかえして、なおその入り口に向かってにまっすぐ走っていけるとしたら、それは愛ですか。狂信ですか。
愛と狂信はどう違うのだろう。
それが狂信だったか愛だったかなんてきっと死ぬときにしかわからない。死ぬときにもわからないかもしれない。

わからないってことは。それらがほぼ同じだってことを意味する気がする。

************

深夜にぱっと起き出して、何かが降ってきたので忘れないうちに言葉を羅列している。これは執筆メモ。この感覚がひさしぶりなので自分がようやく自分の軌道に近いところまで戻ってきた気がしてすこしほっとする。

まったく修羅場な年越しで元旦から大嵐、それが不吉なお告げであったかのように、クソなことしかなかった2011年もあと2日で終わってくれる。もう何も起きないだろうと思っていても12月それなりにクソなことは起きて、23日の大不整脈発作救急車事件のあと、6年働いた大事なお店のファイナルに激風邪が重なるという朦朧にして怒濤な日々を終えた今日、あと2日と言えども油断はできない。何が起こってもおかしくない。
しかしまるで悪いモノがからだから出て行くようにまる1週間体調をひどく崩して、その間に「恋の罪」を2回観に行き、もうすこしで抜けられそうだと感じていた。何かからはわからない。でも何かかから抜けられそうな気がする。

なにか新しいものを書きたいと思っていた。いままで書いたものとは違う新しいものを。そうすればこのクソな2011年にからだで受けとめた混沌を、胸に沸き上がってきた塊を何か素敵なものに結実できる。かといってこれまで幾度か書いてきた、とくに今年発表してきた私小説のような、日記と物語の挾間のような、知人が読んだら「これは誰々ね」とかわかるようなものではなくて(今年はあえて、ある段階としてそれをし続けたのでそれでいいとして)もっと小説として独立したもの。なのにわたしの心の深遠に1番近いもの。私生活とは完全に乖離しているのに内的には劇的に密着しているような。
私生活に対しても小説に対しても。潔いもの。を、書きたい。
でもその交点が見えない。

いままで書いた作品をすべてとても愛しているけど、もっと違った段階のものを書きたいと思っていた。
もっと他人にも自分にも厳しい小説。読んだ人の心を射貫く、ある種磨き上げられた鏡のように怖ろしい、きけんな小説。
でもそれがどういったものかわからなくて、作品もプライベートもどこか消化不良。納得していないんじゃない。長く生きられないきがしているから、常にその都度のベストを尽くしているし後悔はない。どんな結果になっても納得していることだから自暴自棄になったりしない。でも何かわたしがモデルチェンジしないとその段階にはいけない気がしてて。
なんなんだろう、この半端感は。定まらなさは。
それは感情や状況ではないんだ。いま私生活の現状がどうこうで、とか、いまのわたしの恋愛がどうで、とか、わたしと誰かの二人称あるいは三人称とは、まったく関係なくはないとしてもそういう類の話ではない。
もっと誰も関係ないわたし自身のもんだい。

その答えが園子温の作品にある気がして、一回観て、もうすこしでなにかをつかめそうな気がして、高熱をおしてまた今日も行った。前回呆然としすぎて買い忘れたパンフを絶対買わなくてはいけないと思っていた。そして、探していたものの答えのようなものはそのパンフのなかに全部あった気がする。

「入り口の中は出口の外」という言葉は、「恋の罪」のパンフの中で園さんが紹介していた歌の歌詞。

園さんが、作り手の僕が観客の想像力を限定させることは避けたいのですが、と前置きをして言っていた言葉が
つまり、愛の実在というものを考えていくとある種の迷宮感に突き当たる
という言葉でした。

結局やっぱりわたし自身の生き様が半端だから、新しいものが書けないんだ。
斬新なものとか奇をてらうものといった意味じゃなくて、
作家「中島桃果子」が作家としてではなく女として正しく歳を重ねて少しずつだけど変化し、その都度ちゃんと女をしているのだという新しさ。女としての新しさ。

新陳代謝をしているということ。

作品はあたしのからだの中にしかない。肝心なのは女のあたしであって、作家のあたしじゃない。
誰かに心底惚れたなら、その深さの分ちゃんと狂信的になり、きっちり傷ついて、きっちり信じて、きっちりぶつかり、ときおり渇いて、ときに絶望して、それでもなお惚れ抜けるか。熱量と純度をもってとことんもがけているか。
なにがどうじゃない、堕ちるならかっきり一度堕ちて、抜けるならカツンと抜けていけということなのだ。

迷子になることにおびえるな、正しく迷子になれ、ってことなんだと思う。

あたしが死ぬまで作家である限り、まっとうなことや道徳的に正しくすてきなこととか、人が考える幸せの形なんて正直そんなのなんの足しにもならない。あたしが女であるのと同じ分量作家でいることはもう宿命なのだから。
その時点であたしはもう、大きく踏み外しているのだそもそも。
肝心なことは純度。そして熱量なのだ。かっきり堕ちるか、カツンと抜けるか、どっちでもいいから半端でないこと。

セックスで繋がれば自分てわりとぞんざいな立ち位置なんだなと思うし、セックスをしなければしないで抱きたくない程度の気持ちのかと思うし、
生活や金が介在すればそのために傍においてるのかと思う(だろう。わたしは生活を介在させたことがないので予想だけど)

もちろんこれは全部「裏側のこと」を言っていて、
わたしは基本的にはもっと「表」のことを信じている。
「愛」の裏側に「狂信」があるとしたならば「愛」を強く信じているし、これまでもそういった作品を一貫して書いてきた。

だからきっとこれから先どれだけきびしい恋愛をしても、または周りに厳しく見える恋愛をしたとしてもわたしは基本的には日々幸せだ。なぜなら愛ありきのことで、その愛に納得してじぶんがしていることだから。信じているから。

でも逆に、だからこそ、信じるモノは変わらないのであるなら、その裏側を書いてみてもいい。きっとそういうものをいま書きたいのだ。
あたしはきっと、小説の中できっちり堕ちたいのだ。

そして、小説の中できっちり堕ちることができたなら、
その小説を書き終えた瞬間に、
わたしの人生はきっとカツンと抜けていけるだろう。
きっちり堕ちてカツンと抜けたい。

そしたらきっと愛だけが残る。

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