« それはあるいは芝居のように、、、 | トップページ | 「入り口の中は出口の外」 »

2011年12月26日 (月)

ことばにからだがともなうとき

2011_koitsumithumb550x37155411
クリスマスはとても重要。とても大切。
でもそこにあんまり恋愛をからめたくない。きっとじぶんにとっての神聖さと、わたしがクリスマスに求めていることと、恋愛というものの温度が乖離してるからだ。
だから恋愛はわたしのクリスマスへの欲と神聖を満たせない。
だからわたしは毎年わたしなりの神聖を満たすためになにかしら特別なことをする。
去年はイヴに「黴菌」を観に行った。
今年は渋谷に園子温の「恋の罪」を観に行った。
11月の公開前から気になってたけど、今日観に行ってよかったと思う。
(こっから長いです。みなさんよろしくどうぞ)

2011年12月25日をある種の記念日にしてもいいくらい、きっと今日を境にわたしの作品は変わる。だってこういう作品にであってしまったから。
「気づき」をくれる出来事はいっぱいある。
最近では12月14日。その前は9月。
それらはわたしの視野や考え方をかえ成長させてくれる。
でもそういう気づきとは違う、もっと根底からわたしを揺さぶる出来事というのが何年かに一回あって、それらは「それ以前、以後」と言っていいくらいにわたしの人生を揺るがしてきた。
衝撃を受ける作品とわたしを変える作品は違う。
パンドラの鐘はわたしを変えなかった。パンドラの鐘ほどの衝撃はなかったはずなのに上海バンスキングそして串田和美はわたしの人生を大きく変えた。

わたしを変えたものたち。
10歳で出会った演劇。18歳で出会った上海バンスキングと串田和美。スワロウテイル。23歳に味わった劇団の崩壊とディスコという世界。
ヘドウィグアンドアングリーインチ。
ノルウェイの森。
震災の日隣に大切なひとがいて、地震が起きたらわたしはおそらくひとりで死ぬという長年の強迫観念を払拭したという出来事。
(あの日、死がたくさんのひとに訪れ、それはいつか自分にもふがいない形で降り注ぐかもしれないことを覚悟した上で、書きます)

そこに今日から「恋の罪」という映画が加わる。
園子温という映画監督が加わる。
(よしもとばななと江國香織ははぶく。このふたりは音もなくわたしの骨髄にいつのまにか入り込んでいたから)

今日わたしはこの映画を一緒に観たい人がいて、映画を一緒にみたいのではない、この映画を一緒にみたい人がいて、結局ひとりでいったのだけど、この映画をそのひとと観ないのであれば、その代わりといってはなんだけれどあることを実現してみせると心に決めたていたことがあって、それは映画を見終えたあと未来への確信と言ってもいいくらいのことになったので、それをわたしはいまから8年くらいの間で必ず遂行する。それがなにかは成し遂げるまで誰にも言わない。
生まれてはじめて今日わたしはわたしだけの秘密をもった。
この映画を「モノカキなら絶対見ろ!」と言ってくれた人に言いたいありがとうも、映画の台詞をかりると「ことばにからだがついてきたとき」に伝えようと思う。いまありがとうを言うことは簡単だ。そこには覚悟がない。
そんなものではすまないきっかけをもらったのだから。

渋谷の話だから渋谷で観ようと決めて、どれだけ自分が呆然としていたかわかるのだけど、パンフレットを買うのも忘れて渋谷の街に出た。

どうしてもこのまま帰ってはいけない気がして、足は円山町に向いた。
この映画の舞台になった場所。そしてわたしが4年近く住んでいた街。
ちいさなみいき(妹)ともっともっと小さかったかおり(いとこ)を子どもの売春婦に見立てて初めて映像を撮った街。あのときはきっとこの街の怖ろしさも深さも知らずに夜の23時だというのに危ない所で笑ってカメラを回していた。

ああなんだろう。こんな猥雑な場所に住んでいたのに、この頃わたしはとてもきれいだった。心もからだも何もほんとうのことを知らなくて。

Images4

『影がある人ね〜って言われるうちはまだ間に合うのよ。いい?闇は影よりも、濃いから』

わたしもこの10年でずいぶん沖まできてしまったものだなあと思いながら、住んでいたマンションの前までいくと「マイキャッスル渋谷」とある。そうかここにも「城」があったのか。そしてわたしはその入り口をぐるぐるしていたんだ。(映画を観てないひとにはここのくだりはわからないと思う。すまない)

きれいにピュアに生きていると思われがちなわたしだけれど、何度も影よりになったことはあった。いまでもある。ここは闇の入り口だなというところまでも何度も行ったことがある。運良く入り口で引き返してきただけだ。

「あなたが思っているほどわたしはまっすぐでもイノセントでもないのです。見られてまずいことを、知られてまずいことをたくさんしてきた。表向き屈折していると思われがちなあなたよりよっぽど」

思わず懺悔してしまいそうになったけど、”それも宿命だよ、だっておまえはモノカキなんだから” そういう声が聞こえてきて、わたしはわたしのなかに思いとどまった。

坂を登り、昔上司に「俺の女の忘れ物をとりにいってくれ」と頼まれたラブホの前を通り、3年前まで働いていたクラブの脇をとおる。もうここには誰もいない。キャッシャーのくみちゃんも、素直なしんごも、アッシュの髪がとても似合っていた店長のりょうくんも。

カップルが手を繋いでラブホに消えていくなか、わたしはてくてくと慣れた足取りでそこいらを歩き、巡回のパトカーの脇をとおる。
そして映画の台詞を頭で反芻して、次にそれを声に出して言ってみた。

ことばなんか覚えるんじゃなかった。日本語と、ほんの少しの外国語を覚えたおかげで、僕はあなたの涙の中に立ち止まる。ことばなんか覚えるんじゃなかった

ことばではあらわせないことしかない世界に生きて、
こんなにもことばの非力さを知っているのに、
わたしはことばをつかうしごとをしていて、もめごとも、愛も、行き違いも、わかりあうにも、あたしの人生はぜんぶぜんぶことばとは切っても切り離せないところにある。ことばに傷つきことばで傷つけて、なのにことばをつかうことをやめられない。

円山町の出口に、たまたま友人の店があって、そこで一杯のんで夜を締めた。

クリスマスはとても重要。とても大切。

今日を境にわたしの作品は、変わる。
もしくはわたし自身すら、も。

水野美紀さんは圧巻なほどに女優で、
富樫真さんは骨の髄まで女で、
神楽坂恵さんは園子温という映画をよく知っていた。

個人的にはこの映画に、小劇場界の園子温といってもいい劇団「毛皮族」の看板女優、町田マリーが出演していたことをとても誇りに思う。
これはとても、意味のあることだ。

|

« それはあるいは芝居のように、、、 | トップページ | 「入り口の中は出口の外」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ことばにからだがともなうとき:

« それはあるいは芝居のように、、、 | トップページ | 「入り口の中は出口の外」 »