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2011年11月

2011年11月21日 (月)

東北のお米

物事って、そのことを考えているとそれに対する縁が舞い込んでくるものだなあって思うような出来事がありました。

自炊を始めてドメスティックに生活している11月なのですが、そうなると米を炊きたくなるもの。が、しかし米がないので米を買いたい。
そんなことを思っていた矢先にプロフェッショナルで福島のお米のことをやっていて、よし、これを買おうと決めました。

震災がおきてからこっち、とりたてて復興支援とよべることもわたしは何一つしていなくて、そもそも東北にまったくゆかりがなくて、駆けてゆくにも真っ先にかけてゆく場所が見つからない。ビュートリアムの愛郎さんが仙台出身で「人の髪を切りに帰った」と言う話のときに、
「地元だったから初めて自分ごとに感じた。阪神のときはどっかひとごとだった気がする」と言っていました。
今回もちろん他人事とは思っていないけれど、逆に言うと東京もそれなりの被災をしているなかで自分たちも被災者で、ささやかではあるが確実に震災からの流れと思える様々な人生の転機が次々にじぶんにも降りかかってくるわけで、自分が懸命に日々を紡ぐことでいっぱいいっぱいで、「炊き出しにいった!」とかいう友人とかを見ると素晴らしいなと思う反面、納得してできる支援が見つからない気がしていました。瞬発力も必要。でも、忘れ去らないことがいちばん大切で、そう考えるとじぶんには何ができるのか。「何かが出来た。ほらわたしはヒドイ人間じゃないでしょ」と、自分のためにやる支援ではなくて、もっと自然にずっと続けてできること。そういう「生理」に基づいたことをしたいって考えていました。
しなきゃいけない、しなきゃ人でなしだわ、みたいなことではなくて、もっと沸き上がってくることを。でも同時に、日々に追われて何も行動できていない自分に対して「それでいいの?」っていう気持ちもあって。

9月のキャンドルナイトで、東北に持ってゆく灯籠に言葉を書いたときにすこし、ほんとうに自分に合ったことができたなって思ったり、東北の花火大会の特集を見て、これに寄付したかったなと思ったり。

わたしは「自己犠牲」がきらいです。

欲深くなる必要はないけれど、まずは自分の魂が宿っているこの体や身近な人を大切にすることそれも復興だと思っていて。
誰も知り合いがいない東北にとにかく飛んでいくこともわたしのやりかたとしては何か違う気がしてて。
 (とにかく飛んでいける人に大いなる敬意を払った上で、の意見です)
だったら震災の影響でダメージが大きい友人のお店で飲むこと、そこでお金をつかうことも復興だと思っていて。いちばん辛いひとを決めるのは違う気がしていた。
中途半端な被災であってもその被災は確実にそのひとの人生を浸食していくから。

そんなことを考えてたときにプロフェッショナルを見て、みんながこれほどに東北や福島の野菜や米に懸念があるのかと、驚きました。いや、もちろんあるのだろうしあって当然なのだけれど、自分はまったく気にならないので。なので東北や福島の野菜や米を積極的に買おうと決めました。それがほんとうにわたしにとって無理なくできることだと。

差別はいけないことだと、頭に掲げた理想で心に蓋をしておそるおそる垣根を越えるんじゃ意味がないわけで。怖いなと思いながら東北の米を食べるんじゃそれは偽善だとわたしは思うのだ。

昔、ダウン症やなんかの障害を持っている子供と健康な子どもの交流会みたいなのがあって他校のそういう男の子と手を繋いで走るみたいな企画があってわたしは良い子ぶって真っ先にそれをやりますと言ったのだけど、いざそうしてみると、子どもだったわたしは、実際は得体が知れない、しかも今日会ったばかりのその子の振る舞いにひどくおびえた。逃げ出したかった。手を繋ぐのが心底怖かったし、泥水でもどこそこ構わず触るその子の手を汚いと思った。
でも次の年におなじクラスになった子で同じようにちょっとダウン症だった子とは、最初は「めんどくさいな」と思いながら仲良くしてたけどだんだん自然に仲良くなって、その子は何かをやるときわたしと一緒なら暴れたり変な発作をおこしたりしなくなった。
その子が洟を垂らしていたら「ちょっと汚いやん!!」とか言いながらもそれを拭いてあげたりできるようになった。

そういう経験がベースになるからかもしれないけど「納得してできること」にすごくこだわってしまう性分なのです。
そんなわけで福島のお米を買いたいと思い、しかも「福島ならなんでもいい」みたいなずさんな感じではなく、プロフェッショナルの彼がいろんな葛藤を経て選んだあのお米を買おうと思っていた矢先、れいこさんが「お米要る?」と言ってくれて。

「でもね、東北のお米なんよ、気になる?」
そういって目の前にお米が現れたとき、これは縁だと思いました。
ありがたい縁だと。

米ひとつで大げさかもしれないけれど、これならわたしが、いま一瞬ではなくて、今年だけではなくて、これから何年も無理なく、怖れることもなくずっと生活に寄り添わせて続けていけることです。

そんな感じで、頂いたお米。もちろん今後はちゃんと買います!
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2011年11月18日 (金)

ゼロと三号線

すてきな曲をふたつ見つけました。
中島卓偉の「三号線」とbump of chikenの「ゼロ」です。

特に「ゼロ」にはまっています。
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PVもなかなか良くって、9年前に上演した「baby baby」は、頭の中にこういった感じの世界観があったんだけどなあ、うまく形にできなかったなあ、なんて思ったり。
bumpってちゃんと聴いたことなかったけどイイね!
alwaysにいるときこれが有線で流れるとあがります。

終わりまであなたといたい。それ以外たしかな思いがない
怖かったら叫んで欲しい。すぐ、隣にいたんだと、知らせてほしい

心に翼をあげて、どこにでも逃げろと言った
心は涙を拭いてどこにも逃げないでと言った」

心が涙を拭いて「どこにも逃げないで」っていうこのくだりが好きです。

心に冷たくあたって気付かないふり、忘れたふりをしていたら、わたしの心も
「どうして嘘をつくの?置いてきぼりにしないで」って泣いていたよ。


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タクイの三号線は、タクイらしい感情むき出しのエモーションソングです。
かれが叫びながら歌いじゃくるビジュアルがすごく好き。
こちらはYou Tubeにアップされているので、こちら

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2011年11月16日 (水)

こっそり日記

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ブログを更新できずにもう数週間が経つのかと思うとまじでびっくりしてしまいます。なにがこんなに忙しいんだろう。でも忙しい。自炊を始めて、ひさしぶりすぎて失敗ばかりしてそれにもびっくりです。卵焼きが破壊的な見た目に仕上がったときは1時間ほど立ち直れませんでした(笑
それからほうれんそうのお浸しにも失敗。ほうれん草をゆでる段階で失敗し、写メを見たレシピ元から「おまえほぼ溶けてるぞ、それ!」と電話頂く始末。
でもってお浸ししたまま松本行ったら、味かとても濃くなってて辛くて食べられなかった。
しかたないからパスタに和えようと思ったらなぜかパスタを塩ゆでしすぎてさらに辛く・・・なぜあんなに塩を入れてしまったんだろう?おひたしが辛すぎるからパスタに和える対策であったはずなのに。
れいこさんからも「根菜は水から、葉物は沸騰したお湯」とアドバイス頂きました。
「骨皮魚身」って言葉もおそわったよ。

あ、みなさんおいしいレシピがありましたら、コメントください。
アボカドを使った料理や、お野菜を使った美味しい料理レシピ望んでいます。
和食教えてください。

先週水曜日に日本モダンガール協会の淺井カヨさんにお会いしてなんだか
「生きたいように生きる」ってことを考えさせられ、日曜日の串田さんの空中キャバレーでは「やりたいことを一生かけて追いかけ結実させること」の美しさに号泣し、本日ジョブズの特集を見て「大切なのはやりたいことをあきらめない情熱。情熱を絶やさないことそれこそがもっとも困難なこと」という言葉に感動、まだまだ道なかばであるのだと実感して、日記にそれぞれを書きたいんだけど、時間がない。明日あさってですこしづつ書いていきたいと思います。

で「こっそり日記」とは、この日記のことではなくて、新しく買った手帳(気が早いでしょ 笑)に、日々のことや感じたことを毎日万年筆で手書きすることを始めました。実はこういうことはわたし高校生くらいからずっとやってて、手帳方式は、22くらいから26くらいまでずっとやってたのだけど、ミクシを始めたりブログを始めて、そこに書くようになってから、手帳は白紙になってたの。

でも、書くことが生業になってから、書くことは返り血をともなう、癒しではなく荒れ地に裸で飛び出す行為に変わり、
オープンな日記には絶対誰かしら読者がいて、ほんとうのほんとうの心の声が書けなくなってから(みんなそうだと思うけど)
いつしかほんとうに感じている気持ちすらわたし自身がわからなくなってきて、

特にわたしは物心ついたときから「書く」ということはつまり「吐き出す」ことで、そこにすごく依存し、逃げ込んでバランスをとってきた人間なので、その作業が公的なもの、仕事になってから「秘密の部屋」がなくなったようなそんな感じで、心のバランスをどこでとっていいものやと、ミクシとかで内なる気持ちを激しく書いてみたりすると、まあ書く行為がストレス発散なんだけど地元の友だちから
「あんた大丈夫!?」なんて心配されちゃったりして(笑 どうもいかんなあと、思ったりしておったのだが、
「こっそり日記」を手帳につけはじめて数日、よくわからないがなにかが「うれしい」のです。

手書きの文字。乱雑なことば。記される日付。そういったアナログなものの温かみが自分の心に優しいなって思います。

書く、ということに追い詰められ、傷つき傷つけて苦しんで、辟易して、〆切りのばして(笑、書かなきゃ・・と煮詰まって、、

なのに、そんなあたしを救えることもまた「書く」という行為でしかないという、
「書く」という行為にすでに過呼吸であるのに、
そこでしか生きられず常に部分的な酸欠をし飢えているいう、、、

言葉から逃れ得ようのないサダメの人生です(笑)

こっそり日記では、作った料理の献立も書くことにしています。

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