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2011年3月17日 (木)

覚悟のありかた。

『ものを怖がらなすぎたり 怖がりすぎたりするのはたやすいが 正当に怖がることが大事で難しい』

これはわたしが敬愛しているアニキでありCMプロデューサーの方が今日つぶやいていたことで、この言葉が、今日わたしが一日中考えていたことをまことに上手にあらわしていると思い引用させていただきました。

これと覚悟のありかたがどう関係あるかというと、やはり覚悟のありかたが、その正しく怖がることに繋がる気がしたのです。

震災がおき、日本は依然前代未聞の非常事態にさらされ、西に避難するひとも増える中、わたしは今日も東京で生きています。

いまは毎日「生きる」ことを動詞のように扱っています。

このような事態で、さまざまなことが、癒しor不謹慎 救いor自分勝手、恐がりすぎorもっとちゃんと備えて、、と、何人かの友人が用いた言葉通りほんとうにパラドックスで、何が正しいことなのかなんて誰にもきめることができません。
だからこそそこはもう覚悟のありかたなんだろう、それがもたらす説得力が、
いま人がここで生きているということなんだろうなって強く感じます。

震災の次の日に公演を行った劇団をわたしは激しく非難しましたが、本日公演を再開した野田MAPの野田さんのコメントをわたしは真剣に読み共感いたしました。
明日はシンディローパーのライヴにこんなときだからこそ行ってきます。

矛盾しているように見えてもわたしの中は何も矛盾していません。
わたしのなかの答えはずいぶん前からはっきりしているからです。

わたしの仕事は書くこと、芝居をすること、お酒を作ること。
すべてが端的に言うと娯楽です。ここのところtwitterなんかでも、こんなときこそ歌を!とか、こんなときに芝居なんて!とかいろいろ飛び交っていますが、
わたしはどっち寄りでもありません。

この究極の事態に対して芸術が存在価値をなすか否かに関しては、こんなことになるずっと前から「明日地球が滅亡の危機に瀕しても自分は表現しつづけるのか」をずっとずっと自分につきつめて考えてきましたから、こんな事態になって初めてそれを考えている表現者よりたぶん1億倍わたしは覚悟を持ってこの仕事をしてきました。

もちろんこの震災はそれであってもいろんなことを大きく全部ひっくりかえして洗い直し考えさせるものであったというのは前提としての話。

ものごとや仕事には出番がある、というのがわたしの考えです。
まず肩書きの前にわたしは自分を人だと考えて、人としてこの震災を前にたくさんのことに向かいました。
じぶんの考えのベクトルに悩みはひとつもありません。ただそのベクトルに向かうタイミングや実行に関してはよくよく考え悩みました。
わたしは非力で、被災地にむかい誰かを救うこともできません。バスの運転手じゃないから麻痺した都内の交通を緩和することもできません。官房長官にはなれないから枝野さんを寝かせてあげることもできません。
だからといってわたしにできるのは表現だ!と著書を大量に被災地に送ったりは絶対にしません。
土日わたしにできたことは節電と、募金と、テレビの前で歯を食いしばって現状を見ることだけです。
なんかそういうことだと思うのです。
中途半端な覚悟で「生きる」ことをいま一番やってはいけないのかなと。

来月出演する舞台の稽古が月曜から始まりました。それにあたってわたしは降板を考え、揉めたり泣いたりいろいろして、だけどひとつ言いたいのは、いま演劇をしない!というナーバスにわたしが陥ってるのではなく、皆の覚悟のありかたを感じたかったのです。知りたかった。同じ温度でそれに向かおうとしてくれているのか。
最初その覚悟のありかたに行き違いをわたしが勝手に感じて、諦めた物言いになってしまったわたしは降板しようと思い、さらに岡田やタカヤと行き違いを産んでしまった。

ひきとめてくれたのは主宰者のめんたろうの言葉でした。
「いま台本を書くことをやめるのは生きてることを放棄することだから俺はそれをやめない。公演に向かって死んでもいい気で準備する。でも来月もしかしたら公演は打てないかもしれない。俺はやる。でもおまえにもおまえの考えがあると思うからおまえはおまえの決断をすればいい」

台本を書くことをやめるのは生きてることを放棄すること。

このひとことがわたしには大きく胸にストンと落ちました。
この演劇で誰かを救おうとかの傲慢(ごめんなさい、わたしはそう思うのです)がなかったところもわたしは気に入ったのです。

もちろん演劇を打つわけですから、表現が産む癒しの可能性を信じていますし、
それが誰かの心を救えたり具体的にお金という支援になって届けばいいし、生活すら困難な状況での音楽や笑いの重要性というのはもうそんなのずっと前から考えに考えて、おととし山谷に住む家のない人たちが、家さえ捨てた人たちがみんな数冊の本を少ない荷物の中に含ませているのをこの目でみたときから答えは出ていて、
そんなところを悩んでいるのではないもっと違うところ、それが伝わらなくてタカヤや岡田やメンバーを大変嫌な気持ちにさせた、それは申しわけなかった。

さらに、この言葉では誤解を生んだり伝わらないかもしれない。
ただうまく言えないけど、わたしはその言葉のもつ熱量にはんぱない「生きる」ことへの覚悟を感じ、出演することを決めました。
だからわたしは死ぬ気でやります。中途半端に板に乗るのではありません。

そして月曜日からは日常を再開しました。
それが「東京」という一番国が守り抜いた(たとえば港区は停電にならないとかいうことも含め)街の中枢に住み、生き残ることができたわたしができることだと思ったからです。
人を助けたい。でもそのためには自分が生きなくてはいけない。生きるためには働かないといけないし、わたしの仕事は書くこと、お酒をつくること、芝居をすること歌うことであるからそれをする。誰かのために!とか大義名分ではなく自分が生きることを動詞として扱ったときにそれらが付随してきただけの話です。

東京にいてできることは経済をまわすことでもあるので、飲みにいくし、店でお酒つくるし、買い物もします。買いだめはしない。
なぜならほんとに明日死んでもいいと思っているから。その覚悟でいまわたしは東京で生きています。

西へ帰る人、東京に残るひと。仕事する。それどころじゃない。やむおえず自宅待機を強いられる。
選択そのものはきっとそのひとが覚悟をきめて選んだことならよいのだと思う。

わたしは西で生まれたけど、東京しかない。東京がわたしをわたしたらしめた場所だから。そしてその東京で震災にあった。
あれだけ揺れた日、世界の歪みをこの目にしながら、
わたしは東京のアスファルトの上に立っていたんだ。

だからわたしは東京に骨をうずめる覚悟で今日も東京を生きる。
東北でなく東京を生きるということ。
それは経済をまわすということ。
日常を再開すること。
過剰にびびくらないこと。
この震災を正当に怖がること。
わたしにとってそれは、明日死んでもいいけど、長期戦への備えとして自分を元気に保つこと。だから明日シンディの歌を聴く。
マイケルと一緒に歌を歌ったシンディに会いたい。
わがままだけどまず自分を元気にしないと誰かを救えない。
丸の内線で人に突き飛ばされたくらいで泣いてしまったときそう思った。
喜怒哀楽の怒哀しか、いまからだに満ちてないと。そして音楽を欲した。
稽古場での本気が産んだ爆笑に救われた。
そして執筆を再開し、稽古をする。

いまはまだもう少し出番じゃなくても、準備をすることはできる。
それらがわたしにとって東京で生きること。命を無駄にせず生きること。

余計なものをそぎ落としてシンプルに生きること。
愛しいひとにはいつでもすぐに愛しいと伝えること。
できるときにできるひとに連絡すること。
働くことをやめないこと。

それがあたしの覚悟です。

節電をするとかは、言うまでもありません。

※野田秀樹さんが舞台で行った挨拶
「劇場の灯を消してはいけない~この東北関東大震災の事態に上演続行を決定した理由~ 」

http://www.nodamap.com/site/news/206

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コメント

モカ様がお心を痛めて、悩まれたご様子、真摯に伝わりました。
「今自分にできる事」が「生きる事」だと私も思います。
私はガソリン不足な山形に住んでいるので、極力外出を控え、冷蔵庫にあるもので質素に節電しながら暮らしています。
何より楽しみにしていた来月の公演も、まだ正直上京できるか不安もあります。
でも、こんな時だからこそ、演劇や音楽が人を癒し、笑わせ、涙させ、また明日からの「生きる」力を産んでくれると思います。
どうか、命を大切にされながら、温かい物語を書いて、公演に向けて演じて、働いて、歌って下さい。
いつもどこでも、モカ様を応援しております。

投稿: いししLOVE | 2011年3月17日 (木) 14時43分

いししLoveさん
どうもありがとう。山形なんてとってもいま大変だと思います。
そんななか、こんなふうにコメントいたみいります。
ありがとうございます。
公演はどうぞご無理なさらないでください。
わたしはがんばります!

投稿: もかこ | 2011年3月19日 (土) 12時22分

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