コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」
行ってきました!!!コクーン歌舞伎。去年の桜姫を見逃したので、今年はぜひとも!と。
タカヤと行ってきました。純粋に芝居を好きな人と観る芝居は楽しい。
タカヤは頭がいいだけじゃなくて、なにげにハートで芝居を見てるから、
なんだろうな、ちほさんと一緒に芝居行くときに近い心地良さがあるかな。
だから最近、心の底から見たい!と思う芝居にたかやを誘うことが多い。
中途半端に役者と行くと、結構みんな言うのよ。
”どうやったらあれに出れるんだろ”とか
”あー売れてえ”とか、
”あんだけ金かけらるんだったらあれくらいのもん俺でも作れる”とか。
あたしまだ余韻に浸りたいからほんとやめて…とか思ってしまう。
芝居を観たあとにそういう貧相なコメント、どうやったら出てくるの?
激しく疑問。
だったらひとりで行く方がいい。
でも、そんなわけで昨日はたかやと。歌舞伎って祭り、みたいな感じがあるから、
人と行きたいよね。
ずっと楽しみにしてたので(チケットじたいはぎりぎりにとったけど)
なんだか前の日からわくわくして、歌舞伎にわくわくできる自分も嬉しくて、
(どうも歌舞伎ってずっとよくわからなかったから、こんなにも観たいと思えることも嬉しいの)
30分も早くついちゃった。
電気屋で、古田新太さんとすれ違い興奮!!(去年の桜姫出てた!!)
でもって、入り口でつるべえさん発見して、カードが揃った気分!
歌舞伎に落語家がきてるってことが、なんかあたしの気分を盛り上げた 笑
串田さんの生み出す、芝居小屋っぽい感じ。屋台じゃないけど、そんな感じに盛り上がるロビーが好き。上海バンスキングのときもそうだったよね。
コクーンに来るのは5回行った上海バンスキング以来。同じく串田さん演出。
で、佐倉義民傳(さくらぎみんでん)
「歌舞伎見たいです!」
とはりきったわたしには最初はとまどうくらい地味な演目。
でもね、後半じわじわと”これを今年上演すると決めた、中村屋の思い”とかが伝わってきて、なんども、せまるものがありました。
SATCで、不景気だからこそ豊かでゴージャスなものを!
と書いたわたしですが、これはまさに真逆、まっこうから今の世の中に向かいあう、
提示する演劇でした。
その覚悟を震えるくらいに感じたので、拍手にも熱が入ってしまいました。
『揺り篭で眠るこの子の10年後の未来20年後の未来、今だ宗吾ひた走れ、宗吾の夢見た1年後の未来、10年後の未来、それは2000年後も同じ一本道』
※よく台詞覚えてるね…(タカヤブログより引用…)
エンディングでラッパを吹く笹野さんを見て「バクマツ…」と思ってしまったあたしはどうすればいいですか?(笑
串田さんらしい愛らしい演出が随所にちりばめられていて、たまんなかったデス。
串田さん…
いつも思うのだけど、ギリシャ劇や、古典、歌舞伎などを演出するとき、串田ワールドは本領を発揮する。なんかどの国のどの時代でも、芝居はこうやって見ることができるんだというような、もしかしたらこの外は江戸の街かもしれない、とか、ふとベネチアあたりの円形劇場に座ってるかのような、
そんなトリップ感を客席で感じる。
また吉田日出子さんの著書から引用するけど
「たとえばチンドン屋がチンチンチャンチャンやってるあ
いだ、かれの白塗りの顔がおもしろく見えてるだろ? だけど休憩時間になって、木陰に太鼓や楽器を下ろして休んでいるときは、首の周りのドーランを塗って
いない肌がやけに目だって、さっき面白かった顔がえらくこわく見える。ぼくがやりたい芝居っていうのは、そういう芝居なんだよ。そんな感じの芝居をつくり
たいんだよ”女優になりたい”よ
り抜粋」
この数行につきると思うのです。串田さんの芝居って。ほんとに。
それをまた再確認。
そして歌舞伎の人たちにこそ「役者」という言葉が似合うのだと改めて思いました。
こういう状況を「頭打ち」というらしいのですけど(笑
このひとたちがこういう風に演劇をすることができるのなら、
フツウに「俳優」と名乗ったりしている人は、必要なくなってしまう。
このひとたちが圧倒的すぎて、舞台に立つ気概すらなくなってしまうのではないかと思いました。野田さんのパイパーの脚本を読んだときにあたしが思ったような感覚ですね。
「演劇家がここまで書けて、それが立体になるのなら、あたしはもう本をかく必要がなにのではないか」という…頭打ち?ってやつです(笑
大満足のコクーン歌舞伎、感動のコクーン歌舞伎でしたが、
不思議なことに、あたし、あんまし今回の演目をあんま物語として理解できなかった。
頭では解るけど、子宮的な部分ていうか、からだで反応することができなかった。
ぐぐぐぐっと物語に入っていくことができてなくて、
あとからタカヤと色々話すと、
「あたし全然わかっていないじゃん!」と。
それで、気づいたのですけど、
あたしは本でも、芝居でも、映画でも、洗面器に張った水に顔をつけてそこからもぐってくみたいにトリップするんです、観てるときに。
その潜水が浅いと、物語を理解できなくなってってしまう。
今回は「なぜ?」
どうして「こんなこと言うの?」とか、ポイントポイントで、
「なんでなの?」と思ってしまっては水面に浮き上がり、なかなか進めなかった。
※いまオカヤさん(まじょきんの絵を描いてくれたひとが)突然タイムリーにおなじことをつぶやいてたので引用!
「そういえば子供の頃って、本を読んで主人公に感情移入するというよりは、自分は身体能力も性格もそのままの自分として「その場」に居る、ていう読み方だったなあと突然思った。今もものによってはそうだけど」
激しく共感!でもって「その場」にいれなくなると話がわかんなくなる。
ネタバレですけど、
そんなわけで今回、あたしはやっぱり、ダイレクトテーマそのものよりも、
おぶん(七之助)が切られた、というその一点に対する怒りだけを、5年後も10年後も覚えていると思う。
「蝶になって好きなところに飛んでいけだと?」
ふざけるな。と思う。
その一点に関しては洗面器からはじまる湖の、深く、底深くに潜水した。
切られるおぶんを、その横5センチのところで透明人間になって、見ていた。
だから、そこでは拍手しなかった。
ものすごく怒ってたから。
男が「これがおまえの幸せだ」と、女の幸せを決めるというのがあたしにはどうも許せない。
この演目に関してはそんでもって殺してしまったのだから、怒り沸騰です。
「今の感性で観るからそうなる」
んですが、
佐倉義民傳で、「成仏などするな、恨んで思いを強く残せ」ということで、思いが受け継がれているのだとすれば、
あのシーンを、あたしがどうしても許せないという気持ちは、
思い返しても、むかっ腹が立って、時代のせいにできないのは、
きっとそうやって散っていった女の念がそうさせているのだと思うのだよね。
だから、あたしの心に強く残ったメッセージっていうのは、国民よいま立ち上がれ!
っていうことではなくて、
虐げられていた女の歴史が、長い長い歴史があるということを絶対忘れない!
みたいなことになってしまって。
なんたる偏った見方(笑
七之助さん演じるおぶんが愛らしくて、美しくて、すごく好きだったから、
あの人がなぜあそこで死ななくてはいけなかったかが今でもわからない。
理解できないんでなくて、絶対絶対納得できない。
一点集中型的感想(笑
船頭のシーン、やっぱり笹野さんは素敵。
で、なにげに勘三郎さんはやっぱり不誠実というか、ごろつきみたいな役が似合うと思うMeであった…(今回のも もちろんもちろん、素敵だったけど桜姫の役、はまりすぎてた 笑)
| 固定リンク
コメント