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2010年5月 4日 (火)

清潔な朝

わたしの目はひとより少しうすい茶色なので、急にまぶしいところにでたりすると目が痛くてあけていられなくなる。

どうしても「落下する夕方」の続きを読みたかったので、目が痛くなるようなまぶしい朝日の中を、
西麻布から歩いて帰ってきた。

まぶしい朝日のなかで「落下する夕方」を読むってなんか変。

落下する夕方は苦しい。
別れた恋人が今愛している女と自分がふたりぐらしするなんて。
そしてその女のひとは自分がまだ愛している男を全然なんとも思っていないなんて。
苦しい。これを書いている間、江國さんもずいぶん苦しかったんじゃないかなあと考えて、
ふと息抜きに空をみた。

  
そういえば何年も前にこんなまぶしい朝日の中で、頭の中で詩を書いた。
そのときわたしはディスコで働いていて、深夜営業が終わったあと疲れて少し店で寝てしまって。
銀座の4丁目に向かうとき、あたりにはわたししか人がいなくて、
振り返った数寄屋橋は、昨日の喧噪がうそのようにまぶしくて、
とことん清潔な朝だった。
頭の中ではさっきまで聴いていた店の音楽が流れていて
(のちにその曲がnujabesであることを知る)

  
そういう雰囲気の音楽に合うように、あたしは頭の中で言葉を並べた。
もしもこの言葉たちを、バッグに入っている手帳なんかに書き留めて、
それを同僚なんかに見られた日には「ポエムポエム」と大笑いされてしまうような、
そんな環境で、わたしは詩を書いた。頭の中で。
誰にも頼まれていない、誰が歌うこともない、存在の意味すらない詩。

それでもふとまぶしい朝日に目がいたんだとき、どうしても頭の中に言葉を並べずにはいられなかったんだ。
  
この清潔な朝に似合う言葉たちを。

朝日の中でどん底を歩いているわたしが、わたしであることを確認できる言葉たちを。
髪も洋服も営業中についた煙草の臭いで、化粧もはげて、
身体は今日と同じように微妙にほこりと夜の空気でべたべたしていた。

自分がとても行き止まりに立っていることを知っていた。
それをどう打破していいのかさえわからないことも。

それでもそのとき、
頭に並べた言葉たちは、とても美しくて、
誰にも求められていない、どこにも必要とされていない、
いわば存在の意味すら謎なその詩を、
あたしは、
とても気に入ったんだ。
ほんの少しだけ自分を好きになれるくらいに。

    
    
ふと目を戻すと、仙台坂の上では子供たちが朝早くから野球をしていた。
大使館の前では警備たちが、それは人間らしくたっている。

そうか。

ひとは幸せに慣れてしまうのね。
最初は熱かったお湯も、浸かればだんだんぬるく感じるみたいに。

この清潔な朝の向こうに、あのときの行き止まりのあたしが佇んでいる。

いまは行き場があるあたしの言葉たち。
落として見つかって、笑われないように、
メモ帳に走り書きして、こっそりズボンのポケットにしまわなくてもいい。

あの日、朝は清潔すぎて、わたしはどこか責められているような気にさえなったけど、
今は清潔な朝日の中で堂々と「落下する夕方」を読んでいる。

   
朝日のなかで「夕方」を読むのは、やっぱり変。
しかも、落下する。

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