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2010年3月 8日 (月)

物語であるとか、芝居であるとか(上海バンスキング)

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上海バンスキングの中で一番好きなセリフを、役者さんがそれぞれパンフレットに載せています。

わたしが一番好きな言葉は、まどかさんの

針が… すりへっちゃう

という言葉です。
この言葉を書いた斉藤憐さんて、凄いなって思います。
「針がすりへる」って単に、そういう意味ではなくて、色んな含みを意味しつつ、
当時の蓄音機は一曲ごとに針を変えなくてはいけなかったその時代をもあらわしてるのですけど、ほらこの時点でこの言葉の凄さをまったくもって形容できない。

物書きのはしくれとして自分が思うのは、
ある種の空気や匂いのようなものを言葉に閉じ込めようとすればするほど、言葉ほど無力で意味をなさないものはないなあということなんです。ことばほど頼りないものはないのに、言葉に頼りつつも、いかに人は言葉を裏切って生きているのかってことを痛感します。
あたしたちもうダメかも」と言いたいときに、「昨日あのカセットデッキが壊れたのよ」と言ったり、誰かの愛を伝えたいときに「今年は庭の桜、早く咲いたね」とか言ったりして。

だからこそ言葉はとても危険で、むつかしいなって思います。

作家になってから大切にしていることがひとつだけあります。
それは、言葉のもついびつさや自然さを残すということ。

編集者が優秀であればあるほど、言葉は整理され、洗練されてしまいます。
長くて読みにくい言葉は二行に分けるように提案されるし、重複して同じ形容詞があるときもひとつ消すようにペン入れされます。
そんな中で、わたしはそれでも人が興奮したときに、
なんかさ、なんかすごくて、それで、なんか、すごいんだよ
とか言ってしまう感じを大事にしたいなあって思うのです。
そういう、いびつなところに潜む人間ぽさを大事にしたいんです。
だから上手くて洗練されたブロードウェイより、ぐたぐただけと人間がやってるなあって思うムーランルージュの方が好きなんです。

そんなことなので、達筆な作家さんに慣れ親しんでいる読者の人は、わたしの作品を、
へったくそな作家だなあ、素人みたいな筆の運びじゃん。よくこんなので本書いてるな
と思うかもしれない。でも、そう思われても守りたい「いびつな美」があるんです。

なんでこんなことを書いたかっていうと、2010年上海バンスキングもそういうことなんじゃないかなあって思うんです。
もちろんあたしが大事にしてることと串田さんが大事にしてることが同じというよりか、
漠然と自分が大切にしたいなと思ってることを、大手を振ってやっている人が串田さんだったから、ずっと背中を追いかけてこられたのかもしれないけど、ともかく、吉田日出子さんの書いた「女優になりたい」という本の中で、みんなが去った自由劇場に一人ぼっちで残って芝居を続けたサム(串田さん)が、最初に戻ってきたデコ(吉田さん)に言った言葉がとても印象的でここに引用させて頂きます。パンフレットの串田さんぽく語らせてもらうなら、ここで串田さんが言っていることが、どうやらわたしがずっと追いもとめている、物語であるとか芝居であるとかの、そのものな気がするのです。

たとえばチンドン屋がチンチンチャンチャンやってるあいだ、かれの白塗りの顔がおもしろく見えてるだろ? だけど休憩時間になって、木陰に太鼓や楽器を下ろして休んでいるときは、首の周りのドーランを塗っていない肌がやけに目だって、さっき面白かった顔がえらくこわく見える。ぼくがやりたい芝居っていうのは、そういう芝居なんだよ。そんな感じの芝居をつくりたいんだよ”女優になりたい”より抜粋

わたしがパリで見てきて「これだ」と思った、やけに心の奥にストンと落ちた、ムーランルージュのレビューや、テルトル市場の画家のうさんくささや、ラパン・アジルの人たちが奏でた音楽も、紐解けばどうやら、そんなことのような気がするのでした。

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