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2009年6月12日 (金)

ノルウェイの森と友とわたしの傷

※エッセイ調の長い日記です。
Img_0146 この2日間で、4つのものがわたしを救ってくれた。
ひとつめは妹の誕生日、のための準備で、ふたつめはたえこ(あんな)と過ごした午後で、みっつめはれいこさんのことばで、よっつめはノルウェイの森。結果わたしは、いまここで生きている。

ひとつめは火曜日で、休みだった。いつもは原稿を書かなくてはいけないのに書く気がしない自分と、その原因について自分を責めていた。
でもその日は妹の誕生日(の明けるまえ)で、心から「したい」と思えることがあった。「しなくてはいけないこと」でなくて、「したい」こと。
十番のピーコックで、食材を買って、このあと家に帰り、料理をして、高い頂き物のシャンパングラスを出して、安いシャンパンを冷やす、というプロセスを想像したとき、自分がすごく幸せを感じれたことがわかった。そのときカゴのなかで、ホールトマトの缶がごろん、と鳴った。
それも幸せの一部だった。喪失感と絶望感の繰り返しの毎日の中に突如訪れた「やりたいこと」のために前向きに動いている音なのだ、ホールトマトの転がる音は。
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次の幸せは、その次の日の午後にやってきた。わたしは、カーテンを開けた自分の部屋で、曇った午後の光を受けながら、ノルウェイの森の上巻を読んでいて、たえこはリビングで、アニー・リーボビッツのドキュメンタリーを見てたのよ。そのとき、たまらない充足感が訪れたわけ。心地いい距離感がふたりの間にあったから。たえこはわたしに何度も言った。「ねえ、村上春樹ってそんなに? そんなにそこまで? いいのはわかるけど、世界規模でそこまで騒ぐってほどいい?いいけど普通じゃない?ノルウェイの森」
だけど、わたしはそんなたえこのそばで、ノルウェイの森の世界に浸ることができるの。その理由。
妙子はノルウェイの森を否定しても、ノルウェイの森を読むあたしを否定しはしないから。
ここのところずっとそんな、「部分を含む全体の否定」に心をやつしてたから。
ひとは、何かを否定するとき、それを含むひと全部を否定してるときがあるし、そうされたと感じることもおおい。
「なんでそんなうごきなの?」
「なんでそのスカートにその靴なの?」
「なんでそこでそう言うの?」
「なんでそのひとと仲良くすんの?」
「なんで忘れられないの?」
「なんで真にうけるの?」
それは、「そこでそういう(あんた)がわかんない」ってなることが多い。それってしんどい。あなたの価値観はすべてなの?って思うから。
それを押し付けてこられるのってだいきらい。
そして部分ととるか全体ととるかは、そのひととの信頼関係や人間関係の深さだったりもする。
前の日に妙子がわたしに言ったこと。
「あたしね、こないだパーマかけたの。好きでかけたの。そしたら、それを、前のがよかった変だ、って言ったり、今のがいいっていったり、みんないちいち言ってくるわけ。そのときに人間てほんとに勝手にあれこれジャッジするんだなってうんざりしたの。あたしはただ、パーマをかけたくてかけただけなの。それ以上でも以下でもないの。でもそれと同じことをあたしも知らず知らず誰かにしてることもあるってことよね(概要)」
あたしはすごく共感できた。
あたしは言い続けた。
「ねえ、ともだちって何なの?わかってることを忠告するのがともだちなの?わかってるのにどうにもできないことに苦しんでることを受けとめてもらえないなら、なんのためにともだちはいるの?正しいことができないときに正しいことをしなさいって言うのがともだち?そんなの知り合いにだってできるでしょ?」
答えはでなかったけど、それを吐き出せたということがよかった。
「それでもみんな、あなたを愛してるからこそ言ってる」
妙子はいった。
そしておかしなことに一番上の「(たえこspeaks)」と真ん中の「(あたしspeaks)」はまるで違うことをちぐはぐに言ってるみたいだけどちゃんと会話になってるんだ。同じことを言ってるの。
だから、その午後は久しぶりにありのままでいれた。誰にもジャッジされない。好きにパーマかけた女と、村上春樹にはまってる女が、同じ場所で別々なことに夢中になってる。
その状況にすごくホッとしたの。

みっつめとよっつめは違うようで似てるの。でも違うんだけど。

Img_0159 今まで、なにか、本を読んで救われたことはありませんでした。
わたしにとって本はデザートみたいなもんだから。

でも生まれてはじめて、いまさらの「ノルウェイの森」に救われた。
実際、ノルウェイの森がメガメガヒットしたのは、ただ単なる加速だと思う。(単なる、って語弊あったらすいません)だからきっとそれには村上春樹じたいが「ええええ!?」って感じだったんじゃないかとあたしは思う。(←あたしはっての大事よね。決め付けたくないし、決め付けられたくない。押し付けたくないし、押し付けられたくない)
そして実際村上春樹ものちのち このメガヒットに、逆に孤独を感じたと言っています。本人に聞いたわけでないけど。
でも、本ってそうだけど、読むタイミング、や、そのときの気分で、なんてない本が特別な本になったり、素晴らしい本でもぐっとこなかったりするんだよ。流動的なの。

でもわたしにとっては人生のなかの特別な一冊になった。

まず、村上春樹のひょうひょうとしたタッチと、彼が男性で、その視点で書かれていることがよかった。主人公に心重ねて、ぐってはいっていくように読むから、これが女の本だと、心重なりすぎて辛い。
でも本で主人公が「射精する」と、そこにワンクッションできる。
あたしは射精しないから。
射精するひとの思考回路で物事がつむがれ、その先に女のひとがいる。
これがあたしには重要だった。ここちいい距離感。
そこかよ?って思うかもしんないけど、性別ってそこでしょ?
性でしか区別できない。
男って並列電流なんだな。やっぱり同時に2人を愛せるんだよ。
でもほんとにどっちもを同じくらい愛してるんだな。
そしてそれとは別に射精の対象としての女ってのがいて。
でも、ここぞって女を抱いてるときは、女なんかより全然純粋な気持ちで射精してるわけだ。羨ましい生き物です(笑
そして、本の中で四人の人が死に、そのうち女性は二人死んだ。
その二人の女性と一緒に、あたしも二回死んだ。
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正直わたしは生まれてから29年、一度も「死にたい」と思ったことはありません。
でも受賞したあと本が出るまでに一度、あと、最近、幾度か「死にたい」と思ったのです。
でも、それは病んで病んで病んで…というのではないし、
実際「死ぬ」というのではないのです。

ただ、ふっと湧き上がってくるんです。生きてる意味がわからなくなったときに。たくさんのひとがわたしを愛してくれているのはわかっていて、死んでしまったら取り返しのつかないくらいそのひとたちを傷つけることはわかってるからわたしは決して死なないと思います。
でもそういう理屈と、生きる意味をみいだせないことはまた別にあって、昔は夢を叶えたいという気持ちがわたしを強くしてくれたのだけど、今は幸せな作家業という仕事があって、がんばっていけば、またいつか役者もできるかもしれない希望を、その作家業はくれているのに、
こんなに素敵な日々が、まるで味気なく感じるほどに、ひとつの愛の喪失は大きくて、その喪失が、幼いころからわたしが望んできた生活さえも一気に色あせさせることができるくらいの威力をもつことにわたしは絶望したんです。じゃあ、何をもってこの日々をふたたび色づかせることができるのかと。そしてその喪失が、多くのひとから見たらとてもくだらなく、ちっぽけに映っていることがこれまた哀しくて、自分は誰にも理解されないのだ、自分はひとりぽっちなんだと感じさせたのです。
周りはこんなにも愛にあふれているのに、自分だけが台風の目になったみたいにしんとして、すべてに変わり映えがないのです。
だからただ誰かに言って欲しかったのです。
「その喪失は、あなたにとって、すごく大きな喪失だったのだよ。つまらない喪失なんかじゃない。そのことで一年、二年、泣きくらしたっていい、仕事を休んだっていい。新しい毎日や、素敵な仕事や、新しい出会いや、そんなんじゃ簡単に埋まりようもない、それはそれは大きな喪失だったんだよ」
と。
けど、あたりまえだけど、わたしの大切な人たちは、「刺されてなんかいやしない、ただのかすり傷だよ」と励ましてくれるわけです。「明日には元気に外を飛びまわれるよ」と。きっとわたしだって、大切なひとにそう言ってしまうでしょう。早く笑ってほしいから。

だから結局これは自分自身の問題だったんです。

そしてわたしはノルウェイの森の中で、二度死にました。
二回とも、どうして死んでしまったのか、よく解りました。
愛に絶望したからと、絶望を克服できなかったからです。
愛に絶望することは、それくらいの意味をもつんです。
でもそれは、愛を知らないとできない絶望ですから、
幸せなことでもあるわけです。

いまわたしは生きてます。
湿っぽい日記に感じるかもしれないけど、これはわたしの中でそれを乗り越えたということを書いているんです。いや 通り過ぎた、というべきだと思うけど。

4っつの出来事がたてつづけにわたしにやってきて、ノルウェイの森がしめくくり。
いま ほんとに幸せです。
一日が楽しい。少なくとも、こうやって「書きたい」ことがでてきた。
やりたいことも。
すごく可笑しかったのが、ノルウェイの森、難しい漢字にまったくといっていいほどルビがふってないのに(そうとうルビ少なかった気が)、なぜか「急く」ということばに「せ」とルビが、ちょん、とふってあって、なぜここなんだろう?と思って笑いました。
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写真はうちのベランダ「とも’s カフェ」という名前です。
もうひとつ。なんの偶然か、ここに写ってるグラスはふたつともとても大切な人からもらったものです。ひとつはナオミから。ひとつは愛した男から。両方とも、片方割れてしまった。

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コメント

中学時代の友人から、小説を書いたと教えてもらい、
検索して見つけました!
元気そうでなにより♪
これからもいろいろパワフルにがんばってな!

くぼちゃん?覚えてるかな?より

投稿: kubo | 2009年6月16日 (火) 09時16分

こんにちは。
久しぶりに日記読ませてもらって、私と同じこと、同じ気持ちの人がいて、びっくりしました。
私もここしばらく、自分はどうすればいいのか、どうしたいのか、原因を探ろうと過去を見つめればみつめるほど、苦い思い出ばかりを引き出しから引っ張ってしまって、苦しい毎日でした。

今、モカさんの話を読んで、自分が台風の目みたいで尋常じゃない孤独感を感じている、その言葉にすごく共感してしまいました。
今、仕事中なのに、なんだかとても泣きそうです。

投稿: kana | 2009年6月19日 (金) 15時13分

Kanaさん

ありがとうございます。すんごく個人的なことで、「あたしにしかわかんない」と思ってることほど、こうやって、同じ気持ちや痛みを共有している、またはしていた人がいるもので、その瞬間、もうちょっぴり孤独ではないのですよね。
わたしもそういう瞬間瞬間にすくわれています

投稿: もかこ | 2009年6月20日 (土) 15時25分

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