« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月29日 (月)

パピルス発売!!

Img_25_2Img_25_3Img_25  

  

   

   

    

  

「はじまりのものがたり」という超短編を、パピルス(幻冬舎)に寄稿いたしました。6/27(土)発売いたしました。

Opening Story というコンセプトなので巻頭です!!

わたしはかなり気に入ってるのでみんなも気にいってくれたら嬉しいな。

わたしは昔「前世はもんぺはいたお母さん。でも演劇や映画が好きで、買い物袋を提げて、じっと看板を見ている」といわれたことがあり、なぜかそれが腑におちて、自分の感情と無関係に(哀しくも嬉しくもないのに)涙だ出てきたという体験をしたことがあって、

それから幾年かしたとき妹がいきなり、「お姉ちゃんて誰の生まれ変わりかわかった気がする」と言い、「おばあちゃんのお母さん」と言ったんですね。どうも、ひいおばあちゃんの写真を見て、なみなみならぬ懐かしさ(つまり姉と似ているから)を妹は感じたわけです。

そういえばおばあちゃんやおばあちゃんの弟に、お前は日に日にお袋に似てくる、と言われたわたしは、ある日、そういや昔コレコレこう言われたことがあったんよーって前世の話をしたら、ふたりが揃って、
「それお袋!(お母さん!)」て言うわけ。
なんでも映画が大好きで、買い物にでるとずーっとポスターの前で佇んでいたんだそう。ちなみに好きなのはラブストーリーらしい(笑
またひいおばあちゃんは縫い子さんで、着物をもんぺに改造して、自身もそうだけど、近所に配りあるいてたんだって

それは面白いなあと思って、この「はじまりのものがたり」というのを書きました。上古殿キヨ、ひいおばあちゃんの物語です。

とても短いので(原稿用紙9枚/誌面で見開き2ページ)読んでみてください。

キヨさんとあたし。似てる??
Image0261Image044_2_2 ところでモンマルトルでシャンソン歌ってたのはいったい何回くらい生まれ変わるまえなんでしょうか(笑

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月22日 (月)

コラムを書きました。

05103070009_2”はざまの散歩”というタイトルのコラムを書きました。

月刊J-novel2009年7月号 
実業之日本社
ジツギョウノニホンシャ

の、「On Stage」というコーナーです。
一ページなので(コラムだからね)、みなさんに、「買ってね」
と言うのも申し訳ないのですが、良かったら手にとってください。タイトルのとおり「はざま」を散歩しているので、
若干雰囲気としてはこのブログに近いです。
三つ書いて、これが一番いいと言って頂き掲載されているので、物語と、現実とのはざまが、読み物として、いい距離感で書かれたかなと信じています。少々赤裸々風のコラムですけど。あくまで「風」です。

置いてある本屋さん(発売中!)とそうでないところがあると思うので、確実にお求めの際はコチラ→http://www.j-n.co.jp/cgi-bin/product_detail.cgi?magseries=064-000

もともと、ブログ(日記)を書く、そしてそこで、普段自分が体験したことや、感じたことを、少しフィルターを通して、物語のように書く。そこからはじまったので、ずっと、こういうモノをやりたいと思っていました。こんなに早い段階で、そういうお仕事が来て、嬉しいです。

もちろん書くという仕事は、わたしの周りのたくさんの人々を巻き込む作業であって、もちろん、そのことで傷つけてしまうこともあるし、傷つけないで書けないことも知ってて、
もちろん「心の奥まで不快」にはならないように気を配ります、その結果、やはり丸裸になれるのは自分しかいないと自分が裸になるのです。もちろん自分が裸になると、密接に繋がっている誰かや、誰かをとりまく周りを無理やり脱がしてしまうこともあって、自責の念にはかられるのですけど。

でもそこまでしても、自分にメスをいれていこう、と思うのは「究極にパーソナルなことほど究極に大衆的なこと」だから、です。これは福山雅治がぼくらの音楽で言ってたことなんだけど、(断っておくがわたしはファンではない)このことばにはいたく説得力を感じて。

昔から、わたしが書く究極に個人的な文章、ひとによっては「感情の垂れ流し」と思える文章、またある人には「なんでここまで裸になるわけ?」と思われる文章、そういう言葉に対してのほうが、はねっかえりが深いんですね。単純にいうと、ライトなものほどたくさんコメントもらえるけど、そういうものにはコメントなかったりする。でも「心が動いた」とメールしてきてくれる人がいたりする。

人に深く届くものを発信するには、こっちもそれなりの覚悟がいるんだなって思う。
きれいなお洋服着て、素敵な靴はいて「わかるよ、その気持ち」じゃなくて、

「あたし裸足だよ、顔もさ、きれいに泣けなくてぐちゃぐちゃでさあ。でも希望をもちたいの、愛に絶望したくないんだよね」って感じに、さらけていかないと、そもそも書く意味ないでしょ。と思うのよ。だからね、そこは、今後も戦っていきたいと思ってます。

みんなよかったら読んでね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月15日 (月)

TOKYO 2

夕暮れから、夜。
ブラックベルベットというカクテルです。↓

Img_0215   

  

  

  

  

   

  

  

 

Img_0212Img_0214Img_0220

Img_0217

 

 

   

   

 

   

  Img_0218

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月12日 (金)

TOKYO

なおみんちから撮ったTOKYO 携帯でとったから粗いけど。それがまたよくない?

Image347

Photo

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

ノルウェイの森と友とわたしの傷

※エッセイ調の長い日記です。
Img_0146 この2日間で、4つのものがわたしを救ってくれた。
ひとつめは妹の誕生日、のための準備で、ふたつめはたえこ(あんな)と過ごした午後で、みっつめはれいこさんのことばで、よっつめはノルウェイの森。結果わたしは、いまここで生きている。

ひとつめは火曜日で、休みだった。いつもは原稿を書かなくてはいけないのに書く気がしない自分と、その原因について自分を責めていた。
でもその日は妹の誕生日(の明けるまえ)で、心から「したい」と思えることがあった。「しなくてはいけないこと」でなくて、「したい」こと。
十番のピーコックで、食材を買って、このあと家に帰り、料理をして、高い頂き物のシャンパングラスを出して、安いシャンパンを冷やす、というプロセスを想像したとき、自分がすごく幸せを感じれたことがわかった。そのときカゴのなかで、ホールトマトの缶がごろん、と鳴った。
それも幸せの一部だった。喪失感と絶望感の繰り返しの毎日の中に突如訪れた「やりたいこと」のために前向きに動いている音なのだ、ホールトマトの転がる音は。
 Img_0155
   
   
   
   
   
   
   
   
次の幸せは、その次の日の午後にやってきた。わたしは、カーテンを開けた自分の部屋で、曇った午後の光を受けながら、ノルウェイの森の上巻を読んでいて、たえこはリビングで、アニー・リーボビッツのドキュメンタリーを見てたのよ。そのとき、たまらない充足感が訪れたわけ。心地いい距離感がふたりの間にあったから。たえこはわたしに何度も言った。「ねえ、村上春樹ってそんなに? そんなにそこまで? いいのはわかるけど、世界規模でそこまで騒ぐってほどいい?いいけど普通じゃない?ノルウェイの森」
だけど、わたしはそんなたえこのそばで、ノルウェイの森の世界に浸ることができるの。その理由。
妙子はノルウェイの森を否定しても、ノルウェイの森を読むあたしを否定しはしないから。
ここのところずっとそんな、「部分を含む全体の否定」に心をやつしてたから。
ひとは、何かを否定するとき、それを含むひと全部を否定してるときがあるし、そうされたと感じることもおおい。
「なんでそんなうごきなの?」
「なんでそのスカートにその靴なの?」
「なんでそこでそう言うの?」
「なんでそのひとと仲良くすんの?」
「なんで忘れられないの?」
「なんで真にうけるの?」
それは、「そこでそういう(あんた)がわかんない」ってなることが多い。それってしんどい。あなたの価値観はすべてなの?って思うから。
それを押し付けてこられるのってだいきらい。
そして部分ととるか全体ととるかは、そのひととの信頼関係や人間関係の深さだったりもする。
前の日に妙子がわたしに言ったこと。
「あたしね、こないだパーマかけたの。好きでかけたの。そしたら、それを、前のがよかった変だ、って言ったり、今のがいいっていったり、みんないちいち言ってくるわけ。そのときに人間てほんとに勝手にあれこれジャッジするんだなってうんざりしたの。あたしはただ、パーマをかけたくてかけただけなの。それ以上でも以下でもないの。でもそれと同じことをあたしも知らず知らず誰かにしてることもあるってことよね(概要)」
あたしはすごく共感できた。
あたしは言い続けた。
「ねえ、ともだちって何なの?わかってることを忠告するのがともだちなの?わかってるのにどうにもできないことに苦しんでることを受けとめてもらえないなら、なんのためにともだちはいるの?正しいことができないときに正しいことをしなさいって言うのがともだち?そんなの知り合いにだってできるでしょ?」
答えはでなかったけど、それを吐き出せたということがよかった。
「それでもみんな、あなたを愛してるからこそ言ってる」
妙子はいった。
そしておかしなことに一番上の「(たえこspeaks)」と真ん中の「(あたしspeaks)」はまるで違うことをちぐはぐに言ってるみたいだけどちゃんと会話になってるんだ。同じことを言ってるの。
だから、その午後は久しぶりにありのままでいれた。誰にもジャッジされない。好きにパーマかけた女と、村上春樹にはまってる女が、同じ場所で別々なことに夢中になってる。
その状況にすごくホッとしたの。

みっつめとよっつめは違うようで似てるの。でも違うんだけど。

Img_0159 今まで、なにか、本を読んで救われたことはありませんでした。
わたしにとって本はデザートみたいなもんだから。

でも生まれてはじめて、いまさらの「ノルウェイの森」に救われた。
実際、ノルウェイの森がメガメガヒットしたのは、ただ単なる加速だと思う。(単なる、って語弊あったらすいません)だからきっとそれには村上春樹じたいが「ええええ!?」って感じだったんじゃないかとあたしは思う。(←あたしはっての大事よね。決め付けたくないし、決め付けられたくない。押し付けたくないし、押し付けられたくない)
そして実際村上春樹ものちのち このメガヒットに、逆に孤独を感じたと言っています。本人に聞いたわけでないけど。
でも、本ってそうだけど、読むタイミング、や、そのときの気分で、なんてない本が特別な本になったり、素晴らしい本でもぐっとこなかったりするんだよ。流動的なの。

でもわたしにとっては人生のなかの特別な一冊になった。

まず、村上春樹のひょうひょうとしたタッチと、彼が男性で、その視点で書かれていることがよかった。主人公に心重ねて、ぐってはいっていくように読むから、これが女の本だと、心重なりすぎて辛い。
でも本で主人公が「射精する」と、そこにワンクッションできる。
あたしは射精しないから。
射精するひとの思考回路で物事がつむがれ、その先に女のひとがいる。
これがあたしには重要だった。ここちいい距離感。
そこかよ?って思うかもしんないけど、性別ってそこでしょ?
性でしか区別できない。
男って並列電流なんだな。やっぱり同時に2人を愛せるんだよ。
でもほんとにどっちもを同じくらい愛してるんだな。
そしてそれとは別に射精の対象としての女ってのがいて。
でも、ここぞって女を抱いてるときは、女なんかより全然純粋な気持ちで射精してるわけだ。羨ましい生き物です(笑
そして、本の中で四人の人が死に、そのうち女性は二人死んだ。
その二人の女性と一緒に、あたしも二回死んだ。
Img_0150_2

正直わたしは生まれてから29年、一度も「死にたい」と思ったことはありません。
でも受賞したあと本が出るまでに一度、あと、最近、幾度か「死にたい」と思ったのです。
でも、それは病んで病んで病んで…というのではないし、
実際「死ぬ」というのではないのです。

ただ、ふっと湧き上がってくるんです。生きてる意味がわからなくなったときに。たくさんのひとがわたしを愛してくれているのはわかっていて、死んでしまったら取り返しのつかないくらいそのひとたちを傷つけることはわかってるからわたしは決して死なないと思います。
でもそういう理屈と、生きる意味をみいだせないことはまた別にあって、昔は夢を叶えたいという気持ちがわたしを強くしてくれたのだけど、今は幸せな作家業という仕事があって、がんばっていけば、またいつか役者もできるかもしれない希望を、その作家業はくれているのに、
こんなに素敵な日々が、まるで味気なく感じるほどに、ひとつの愛の喪失は大きくて、その喪失が、幼いころからわたしが望んできた生活さえも一気に色あせさせることができるくらいの威力をもつことにわたしは絶望したんです。じゃあ、何をもってこの日々をふたたび色づかせることができるのかと。そしてその喪失が、多くのひとから見たらとてもくだらなく、ちっぽけに映っていることがこれまた哀しくて、自分は誰にも理解されないのだ、自分はひとりぽっちなんだと感じさせたのです。
周りはこんなにも愛にあふれているのに、自分だけが台風の目になったみたいにしんとして、すべてに変わり映えがないのです。
だからただ誰かに言って欲しかったのです。
「その喪失は、あなたにとって、すごく大きな喪失だったのだよ。つまらない喪失なんかじゃない。そのことで一年、二年、泣きくらしたっていい、仕事を休んだっていい。新しい毎日や、素敵な仕事や、新しい出会いや、そんなんじゃ簡単に埋まりようもない、それはそれは大きな喪失だったんだよ」
と。
けど、あたりまえだけど、わたしの大切な人たちは、「刺されてなんかいやしない、ただのかすり傷だよ」と励ましてくれるわけです。「明日には元気に外を飛びまわれるよ」と。きっとわたしだって、大切なひとにそう言ってしまうでしょう。早く笑ってほしいから。

だから結局これは自分自身の問題だったんです。

そしてわたしはノルウェイの森の中で、二度死にました。
二回とも、どうして死んでしまったのか、よく解りました。
愛に絶望したからと、絶望を克服できなかったからです。
愛に絶望することは、それくらいの意味をもつんです。
でもそれは、愛を知らないとできない絶望ですから、
幸せなことでもあるわけです。

いまわたしは生きてます。
湿っぽい日記に感じるかもしれないけど、これはわたしの中でそれを乗り越えたということを書いているんです。いや 通り過ぎた、というべきだと思うけど。

4っつの出来事がたてつづけにわたしにやってきて、ノルウェイの森がしめくくり。
いま ほんとに幸せです。
一日が楽しい。少なくとも、こうやって「書きたい」ことがでてきた。
やりたいことも。
すごく可笑しかったのが、ノルウェイの森、難しい漢字にまったくといっていいほどルビがふってないのに(そうとうルビ少なかった気が)、なぜか「急く」ということばに「せ」とルビが、ちょん、とふってあって、なぜここなんだろう?と思って笑いました。
Img_0154_2 Img_0158
   
   
   
   
   
   
      
      
      
    
    
   
 
   
 
写真はうちのベランダ「とも’s カフェ」という名前です。
もうひとつ。なんの偶然か、ここに写ってるグラスはふたつともとても大切な人からもらったものです。ひとつはナオミから。ひとつは愛した男から。両方とも、片方割れてしまった。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年6月 5日 (金)

Pu-Pu-Juice 新・罪と罰

                                                     PupujuicetopicImg_0122Img_0121    

  

  

  

  

       

 

先週金曜日、赤坂REDシアターに行ってきました。
イキウメに行きそびれたので初レッドシアターです。この劇場に行くこと自体がまず楽しみでした。

PU-PU-JUICE
最近けっこうこの名前をよそから聞くこと増えた。

※わたしが一緒に働いてたエミ→の今のお店のお客さん→Pu-Pu-に出演
※わたしがCDの帯コピー書いたNOROさん→その友人、壱成さん→Pu-Pu-に出演
(NOROさんと壱成さんは友達だったんですね!びっくり!そして今NOROさんとMAYAが一緒にレコーディングしてるっていう…ほんとつながりってすごい!)
※妹の彼→の職場の厨房の友人→Pu-Pu-に出演

これはきっとわたしの顔が広いのではなくてPU-PU-がでっかくなってきているのダ。
実際劇場も長蛇の列でした。いい劇場。
ちょっとドキドキします。ジニアスに遊び行くときもそうだけど、自分がそこで命かけて頑張ってた場所を離れて、そこに行くときって、ほら、お互いの時間も動いてるでしょ、でもまるで無関係じゃないよね、だから元彼に会う、みたいな、ドギマギがあるの、距離感のとりかたわかんなくなる…みたいな(笑

舞台の感想ですけど。

感想っていうか、いしだ壱成は、映像でみてる限り、すごくエモーショナルな感覚的な役者さんと思ってたんだけど、Pu-Pu-のカラーに合わせてきたっていうか、私の好きないしだ壱成をあまり見れなくて残念だったけど、そのおかげで全体バランスがとれてて、このひとプロなんだなと思いました。
プープーのメンバーに関しては何もいえません。
だって知らない人が増えた中で、旧メンバーが出てくるだけで嬉しいんだもの。なんかファン心理よね(笑 芝居の下手とか上手いとかどうでもよくなっちゃう。こうきさんがカマナイ方ががっかりしちゃうし、久米とかながやんは出てきただけで笑っちゃうし、さっこやまあさが出てきたら「もっと出番がありますようにと思っちゃうし(親か!)」ともさんや一平がいしだ壱成となかなかいいシーン作ってると鼻ふくらましたくなるわけ。それって親心でしょ(笑

最近役者から離れたわたしは、個個の優劣とかより、物語を物語としてみるようになってきました。昔もどちらかといえばそうだけど。
この物語はむつかしいです。
100人が救われば1人殺してもいいかって話なんだけど、
難しいね。脚本書くのに3年かけてもいいと思う。

物語については(ネタバレあり↓)

主人公の動機が、劣悪な家庭環境の幼少期で苦労した母親を見ながら生まれた危険な思想が犯罪を生むんだけど(そういう回想がある)、なんか、それって、劣悪な環境で育った人間は犯罪者になります、みたいじゃない??
またジュノの話で悪いんだけど、電波技師がジュノに「養父母が育てるんだったら安心だわ。十代の母親環境は劣悪です」
っていったときジュノが言うの。
「なんで10代の母は劣悪なの?養父母はサイコで赤ん坊を虐待するかもよ」って。

物事の面って難しいと思う。今回のテーマは罪と罰だけど、それが罪が罪でないかというより、そういう家庭環境だから罪おかしました、みたいなところに?批判じゃなくて、考えました。でも世の中で起きてる虐待や殺人に貧困や家庭環境が影響していないかっていうとそれはもちろん影響してるわけで。でももうすこし掘り下げてもいいと思う。
花町に売り飛ばされた娘と、売り飛ばした父、父は娘の出産で改心し、和解する。それはほんとうに可能か??今まで胸にためた憎しみをどう処理すればいい??
犯罪者を愛して、かくまうことを誓った女刑事は、自分の仕事に対する誇りはないのか?頭がおかしくなるくらい愛した??
そういうことを細かくつきつめていくとエンターテイメントとして不可かもしれないけど、もしかしたらそういう隅々まできちんと人間を描いていたら、もっと面白いかもしれない。

これはほんとうに批判じゃないんだ。これと同じことを、わたしは小説を書くといつも読み返してやるんです。書いてるときは世界に入ってるから、抜け出てきたときに、ひややかな読者になるの。
それ甘くない?
それ安易じゃない?
そんなきれいごとある?
答えがでなくて書けないテーマもたくさんある。

?(ハテナ)を頭に浮かべたり、親ばかのように笑ったりはしゃいだり、
ときには、価値観の違いにいらだったり。
それでもわたしはPu-Pu-Juiceを応援している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »