「三番目の女」
長いので暇なひと読んでください。
私には気になっていた舞台芸術家がふたりいた。 毛皮族の江本純子と、劇団「本谷有希子」の本谷有希子、 である。 ふたりともあたしとおない年(学年)で、1997年に芝居の為上京。 2000年(つまり21のとき)に劇団を旗揚げして、最初の公演をした。 1979年生まれ。 女性演劇人、豊作の年である。 本谷有希子のことは知らなかった。というか忘れていた。 こないだちほに「本谷有希子」を見に行こうと思う、というと 「ぷぷぷ。あなた嫌いよ、たぶん」 と笑われた。ちほの文学座の同期の少女が、本谷有希子の看板女優で、その後お亡くなりになった話をもう数年前に聞いていたことをついさいきんまで忘れていた。 江本純子のことはだいぶ前からしっていた。 もう数年前に見に行った小劇場の折込みを見て、これはくるなあと思っていた。果たしてあたしの直感通り、毛皮族は、ものすごいスピードで大きくなり、アングラだった「江本純子」「町田マリー」の名を、メジャーな映画のはじに見つけることができるようになった。 本谷有希子が一躍有名になったのは 映画化された「腑抜けども 悲しみの愛を見せろ」 ではないかと思う。タイトルを見て惹かれて見に行った。面白かったが、わたしの嫌いな痛さはあった。 なぜこのふたりが気になるか。 1979年うまれで18さいで上京し、21歳のとき劇団を立ち上げた女がもうひとりいる。 三番目の女。 あたし、だ。 あの一番多感な時期に、同じように小劇場をかけずりまわり、 自分で舞台をつくろうと同じ発想をしたことにあたしは強い親近感をもった。 なぜそうなったかも手に取るようにわかる。 自分がうまくはまっていける演劇をさがし続けて、そこには何もないことを二十歳で知ったからだ。 あたしたちのような女が創れるもの。 それは自分の中にしかない。 彼女たちもそれを時を同じくして感じたのだと思う。 2002年の舞台以降、わたしは少々道に迷ったが、 二人は着実に、その名前を世に知らしめてきた。 そんなふたりをわたしはとても気にかけていた。 変な負けん気みたいなのもあったかもしれない。 世の中の同い年の女優さんの活躍に嫉妬することはまったくなかったのに、毛皮族がより大きな劇場に進出のは、 ちょっと、いやだいぶ悔しかった。 江本純子に関しては「化け物」だと思っていた。 「なぜ女なのにこんなことができるのか」 そこがどうしても解せなくて、気になっていたのかもしれない。あまりに性的な芝居を、あっけらかんとこなす化け物だった。だが5月にシアターアプルにいってそのなぞは解けた。 そして、江本純子を昔より好きになった。 本谷有希子のことは好きになれない。 「腑抜け」は面白かった。
しかし、友人が「痛すぎて読めないの」 と貸してくれた、彼女の文学全集たるものをよんで、あたしは吐くかと思った。 ただ、途中でやめることができない、ブレーキの利かない特急棺桶であることは確かだった。 「虫が嫌いどころか怖い」というコミュに入ってたことがあった。気持ち悪くで怖いものを、ちょい覗きしたい好奇心。 蛇とカエルをSHOWCASEにいれてそれをガラスのような目でじっと見てる女。本谷有希子はそういう女ではないかと思った。 気の狂った女が、40さいを過ぎても童貞のはげ男の、唯一の友達である猫を電子レンジでチンしてそのあとで童貞男とセックスするような話。 こういう話を書く女の人は苦手。 でも途中ではやめれなかった 苦手なのは、わたし自身が、この手のタイプのアーティストに、逆に「勘弁して」と思われるような、感情垂れ流し系の人間だからなのかもしれない。 こないだちほがあたしにくれた花椿(資生堂からでる紙雑誌) に本谷有希子の文が掲載されている。 引越しの話で、彼女は役者としては2年で挫折、その年に引越し。 『1999年、何もない茗荷谷からわたしは飛び出した。何もないのは茗荷谷ではなくて、自分だったことに気づくのはもうすこしあとのことだった』 その文章には共感した。 1979年生まれ 女性演劇人豊作の年。 といわせるために。 まだ誰も知らない三番目の女がいることをここに。 2007年、 ずいぶんと遅れをとったが、 三番目の女の逆襲がはじまる。 ※正確にはふたりは馬年(1978年)です。 |
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